93 イオナの出奔7:グラーニャ・エル・シエ
いまや、テルポシエの地は完全に夜に覆われていた。
食いもの商売はようよう書き入れ時、晩めしを詰め込んで遊び疲れた子らのために爺さん婆さんが床をのべる、忘れていた洗濯物を慌てて露台から取り入れているがたぴし音……。
灯りという灯りがともって、城塞都市の輪郭は、闇の中にはっきりと浮き上がる。
西方・数愛里のところから眺める女の目にも、それは映り込んで輝いていた。
テルポシエをぐるり取り巻く湿地帯、その天然の分厚い防衛壁を前に、白馬にまたがった女は笑っていた。
「……嬉しそうだな、グラン」
彼女のすぐ左脇、大きな黒馬上の男がぼそりと低く言ってよこす。無表情である。
その実内心で、彼はものすごくやっかんでいた。
闇の中でだってわかる、女は今まで彼が見た事のない顔をしていた。
――俺に抱かれるよか戦の方が愉しいのか、いや仕方ないんだろうけど、あんちくしょう。
「はっ」
鼻で笑うかの如く、女は低く答える。
「ゲーツ。……俺は、この日を楽しみに生きてきたんだぞ?」
するっと軽い夜風が通って、肩に届きかけた女の白金髪が揺れた。
露わになった片耳には、幾つもの環と貴石とがはまっている。暗くたって男はそれらの位置を識別できる、それくらい女を知っていた。
したって何の意味もない嫉妬を、ぐるぐる男にわだかまらせる程に艶やかな顔、ぎらぎらと挑戦の視線をテルポシエ城塞に向けて発しつつ、女は続ける。
「このグラーニャ・エル・シエを辱め追放した故郷、憎き祖国テルポシエ。それを俺が今日、この手で……」
ほんの一瞬だけれど、グラーニャの唇の隙間からその舌先がのぞいて、ゲーツは下顎に再び、あの強烈な拳の一撃を見舞われた錯覚をおぼえる。
「灰にしてやるのだ」
二騎の後ろの樹々にまぎれて、長い長い騎馬の軍列が佇んでいた。




