92 イオナの出奔6:挽歌の呪縛
テルポシエの東門をくぐって厩舎に白馬を返せば、もう完全に夜だった。
市街を抜けて、城門を通って、見かける人々がかけてくる“こんばんは”も、中庭からの夕食の匂いも、全てイオナは感知できずに、ひたすら早足でかけ抜けた。
ようやく城の最深部近く、メインとの居室の前にたどり着く。
「人払いを」
脇に控えていた予備役の青年に何とか告げて、イオナは扉の取手を掴む。
……しかしその一瞬、彼女は聞いてしまった。
鉄の取手に触れた手が、全身が、凍りついた。
♪ ……わたしはあなたを 想い呼ぶ
メインの声だ。メインがひくく、歌っていた。
予備役が遠ざかる足音にかぶさるように、おぼえのある旋律が、忘れたいのに忘れられないあの挽歌が、間違いのない明らかさで彼女に届いていた。
♪ なみだの中の 海に呼ぶ……
こんなに厚い扉なのに、なぜ、どうして。
かちゃり、
静かに扉を押してイオナは部屋に入る。
メインが振り返って、やさしく彼女を見る。
フィオナの寝籠の横に座り込んで、娘のふかふか赫毛を撫でていた。
「おかえり。どこへ行ってたの?」
責める調子なんてこれっぽっちもない、ようやく帰って来たイオナを見て、嬉しいだけの顔。
「今、フィオナ寝たとこ……」
言いつつ立ち上がりかけたメインを、イオナは遮る。
「それ、子守唄じゃない」
つかつか歩み寄って彼の目の前に立つ。
薄暗い室内、小さな蜜蝋灯りの中に浮いたイオナの顔、……同時にイオナの全身を取り巻く不安と焦燥と疑惑のどす黒い色を“見て”、メインはぎくりとする。
「ネメズの集落の“海の挽歌”を歌える人間は、もうわたし一人しか残っていないはずなのに」
――そう、アランが死んでしまったのだから。
「なのにどうして、メインが知ってるの? 一体どこで、誰に教わったの?」
メインはゆっくり焦った。唇を噛む。しまった。
目を閉じて深く息を吐く。フィオナの寝籠をそうっと持ち上げて、続きの間に置いてきた。
「……フィオナのせいで、油断した」
ようやくイオナの目を見て、彼は切り出す。
イオナは立ち尽くしていた、身じろぎもせずその瞳いっぱいに恐怖を湛えて、彼を見ている。
メインも泣きたかった。それでも、ここまで知られた以上は嘘なんてつけない。
「……イオナ、“彼女”は。……ユカナは」
メインがその名を口にした時、イオナはびくりと全身を震わせ、目をいっぱいに見開いた。
「俺が初めて、いとおしいと思えたひとなんだ」




