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海の挽歌  作者: 門戸
還り来た女
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09 還り来た女4:首領エノ王と採用

 屋台のおやじが店先に出しておいた煮込み鍋の隣。見事な栗毛馬の手綱たづなを引いてたたずんでいるのは、黒々とした髪をひっつめた中年の大男だった。


 あたふたと立ち上がるニーシュに対し、エノ王と呼ばれたその男は、手綱を持たない方の手をひらひら振った。



「ああ、怪我してるんだから無理するな。さっき薬翁とすれ違って、お前の事を聞いた。また、すごい量のさらしを巻かれたもんだな……」



 風雨にさらされ日にかれて引き締まった精悍な顔は、元は端正なつくりだったのかもしれない。目尻に、短く刈った濃色のひげのふちに、多くのしわを刻んで王は笑顔であった。


「……」



 向かい合ってみれば、実際にはニーシュの方がずっと背は高いのだが、不思議とエノ王は“巨大”にしか見えない。


 ゆったりした黒い短衣に肩布をかけた出で立ち、良すぎる姿勢、……それらのせいだけではなかった。



「ワラとオーカーサのことは、本当に残念だった」


「はい」



 今回の任務で亡くした、同僚二人の名である。お互い初めて組んだ者たちだったが、彼らの体はどうなったのだろう。



「ニーシュ、お前は良く帰って来てくれたな」



 簡潔ではあるが、誠実さに満ちた王の言葉がニーシュの胸にみた。



「ありがとうございます。この三人が助けてくれなければ、俺も死んでいました」



 エノ王は笑顔のまま、視線を巡らせる。底の見えない漆黒の瞳が、飯台に座ったままの三人組をとらえた。



「……こう見えて、ニーシュは大切な男でね。感謝するよ、本当に有難う」



 イオナ、ヴィヒル、アランはまっすぐにエノを見つめていたが、無言のままだ。


 お構いなしに、エノ王は喋り続ける。



「まあ、もっともうちの陣営には、大切でない人間なんぞ一人もいないんだが……」



 一体何を思案しているのか、表情の読みにくい王の双眸がくるりと動いた。



「ものは相談だが、君たち。うちの軍に入らんか?」



 自分が先だって言おうとしていた事が、エノ王の口から出たのに驚いて、ニーシュは目を見開いた。



「実はさっきの立ち回り、遠くからちらーと見ていたのだが。かなりの腕利きなのだろう? 是非とも、その力を借りたい」



 音もなく、飯台の隅からアランが立ち上がった。そのままエノ王に向けて、丁寧に頭を下げる。



「会ったばかりの方に、そこまで言っていただけて、たいへん光栄です。けれど、辞退いたします」



 ニーシュもエノも、アランの顔をまっすぐに見た。全く臆する事なく、小柄な女はすらすらと淀みなく続ける。



「失礼ですが……、現時点で戦局の利は、どう見てもテルポシエの防衛側にあります。わたし達は、敗北の匂いのする所には、一時でも根を張らないことにしていますので」



――いや、それにしては義姉ちゃん、あんたが率先して食事をしたがってましたが……??



 両者もちろん気づくわけもないが、この瞬間ニーシュとイオナは内心で、全く同時に同じ突込みを発していた。



「ほんとに、失礼だな」



 エノの背後からぼそりと流れた独白に気付き、ニーシュははっとする。


 自分の直属の上司である若い幹部、それに銀髪の老賢人が、こちらは徒歩で歩みよってきていた。だが後ろを振り向くことなく、エノ王は彼を牽制する。



「黙っとけ、パスクア」



――ほー、女が交渉役なのかね、この三人組?



 エノ王の胸の内では、好奇心が頭をもたげてきていた。



「お嬢さん、我々が無謀だと思うのかい?」


「ええ。だってそうでしょう? テルポシエは海を背にして、一見エノ軍に追い詰められた形ですが、実際には潮流という補給路が十分に機能しているものだから、陸路の兵糧攻めも全く意味がない」



――いいぞ! ちっちゃいの。



 エノは嬉しくなった。本当に頭の回る者が話すのを聞くのは、心地がいい。


 アランは笑顔のまま、続ける。



「おまけに、内陸側はあの石壁まじりの湿地帯に囲まれている……。昼は向こうから丸見えだし、夜に焼き討ち奇襲をかけるとしても、骨の折れる厄介な障害物です。現に包囲戦を始めて何か月、でしたっけ? 王様、いまだ落とせていないじゃないですか」



 うふふ、とアランは小首を傾げた。



「この調子じゃ、すぐに冬になっちゃいますよ。同じ気象下なら、野営しているエノ軍より、石のお家の中にいるテルポシエ人の方が、断然楽です。疲弊したところを逆に奇襲されちゃったら、天下の荒くれエノ軍団だって、もうどうなるかわかりません。……弱小国家となめてかかってる他のイリー都市国家群が、ティルムン貿易維持のために、団結して加勢してくるかもしれないしね」



 エノは満足気に頷いた。



「素晴らしい戦況見解だ、お嬢ちゃん! 地元の事情も、よく把握してるな。君、だいぶ小さいが、実はテルポシエ騎士なんじゃないの?」


「やだあ、ただの流れの傭兵ですう」



 あはははは、と頭脳派二人が笑いに和むその外側で、ニーシュとその上司、老賢人、エノ配下の男たちは肝を冷やして固まっていた。



――舌禍、という言葉を知らんのか、こいつ…。



 エノ王はたのしげに、左手であごひげをしごいている。



「だがね、私は好機ってものを死んでも離さない主義なんだ」



 若い幹部と老賢人は、顔を見合わせる。二人ともまずい流れだと感じているが、年季の深さでおいそれと王に苦言を言わない。否、言えないでいる。



「冬の寒さは大敵だが、同時に広大な湿地帯を乾燥させる利点もある。枯草を燃やして、泥炭地に灰を埋めつつ進行するのも、わけないだろう。問題は海路の遮断だが……去年の観測結果から、夏季に数日間、潮流が極度に弱まる事が判明しているんだ」


「すごっ! 王様の所には、そういう観測専門のひとまでいるんだ!」


「いや、下請けさせただけだから、私はよく知らんけど。まあとにかくその時期にだね、シエ半島から一気に進入すれば、テルポシエをうまく海から分断できそうじゃないか?」



 アランは口をすぼめる。



「冬の乾燥と夏の現象……、すれ違ってばらばらなままですけどー。いったい何をどうすれば、それが好機になりますのん? 王様」



 ここでエノは、弾けそうな満面の笑みを浮かべた。



「次のねた・・までは、君も知らんと見える」



 この年代にしては白く整い過ぎた歯並みがのぞき、アランは思わず小指を立てた右手を顔面にかざした。



「ううッ、まぶしいっ」


「ほぼ四年に一度、冬のさなかにも潮流が弱くなるということを、地元の海賊やテルポシエ一帯の漁民たちから聞き出してある。騎士や市民たちはほら・・だとしているが、その実はひた隠しにしたい事実のようだね」


「……!」



 誰かがひそかに、息を呑んだようだが、気のせいかもしれない。



「次の冬に、それは起こる。否が応でも、テルポシエは防衛力を海陸二分しなければならなくなる。最固の守備が、最弱になる一瞬だ」


「では、そこを海から叩くと?」



 いつの間にか、アランの態度から軽さが消えていた。



「いやいや、海運は不得手でねえ。盟友の海賊にでも陽動してもらって、我々本軍は一気に湿地帯を突破しようかな、と」



 ヴィヒルが静かに、そしてイオナが立ち上がった。


 彼らの表情を見たニーシュは、おや、と思う。


 食いもの屋台の店先で、作戦機密をべらべら喋った軍総統に向けて、三人家族はいま、得体の知れない硬い空気を発している。


 この変わりようを、ニーシュは奇妙に感じた。まあ、作戦計画を打ち明けられて、さらにおちゃらけていられる人間もあまりいないだろう。



「ヴィ―」



 低い声でそれだけ問うアランに、ヴィヒルはこくりと頷く。



「イオナ」


「わたしは異存ない」



 乾いた声で応じ、イオナは続けてエノ王を見た。



「あの。でもちょっと、お願いがあります」


「何だね」


「彼と同じところに、所属してもいいですか」



 彼って誰、と思った瞬間イオナの手が自分を示しているのを見て、ニーシュは面食らった。


 エノ王は不思議そうに、背の高い娘を見つめる。



「?……別に構わんけどな、君らの実力なら? けど赫毛あかげの美しいお嬢さん、“先行”がどういう仕事なのか、知ってて言ってるの?」


「ええ、何となく」



 ニーシュは心をえぐられた気がした。そんなに簡単に知られるという事は、やはり自分はこの仕事に向いていないのだ。そうでなければ、イオナの傭兵としての格が高すぎる、という事になる。


 この赫毛あかげの美しいお嬢さん――エノ王の描写がここまで的確だと思えたことはない――は、全くもってはかり知れなかった。



「それじゃあ、よろしく頼むよ」



 あっさり言い放つと、エノ王はさらりと栗毛馬の手綱を引いて、歩き出した。老賢人が銀髪頭を振り振り、それに続く。



「できるだけ早く出納係をよこすから、君らの報酬や待遇の事は、直接交渉してくれ。ニーシュ、お前はまた後で報告な」



 若い上司は事務的にそう言って、踵を返す。白金色の長い編み髪、子犬の尾のようにくるりと丸まったその先端を背中に揺らしながら、小走りに行ってしまった。常に忙しそうにしている人である。



「期待してるよー、皆ー」



 ニーシュとイオナ達に限定したと言うよりは、聞こえる範囲内の傭兵全員に向けられた、エノのおおらかな美声が届く。緊張の糸が切れて言葉もなく立ち尽くすアランの両肩に、兄妹が手を置いていた。



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