89 イオナの出奔3:死産
脚が強くなければ、先行など務まらない。
近年、現場よりは上から指示の場面が多くなってはいるけれど、それでも全力疾走する機会は他の兵に比べたら多い方だろう。
しかし今回ほどパスクアは、自分の全力疾走をじれったく感じた事はなかった。
父を失った時はほんとの本気で走っていなかった、……その記憶を脇に押しやりながら、彼はクレアの酒商“みつ蜂”へ転がり込み、近所に住む産婆のおばさんをほぼ抱えるように爆走して、旧北棟地下階へと舞い戻った。
「姫様、今行くぞおっっ」
後ろを走ってついて来るクレアが、実に頼もしい。
明り取りの窓を閉め切った薄暗い室内で、エリンはうめく。
きれいな長衣は脱いでしまって、粗末な麻の肌着一枚、細い簡易寝台の上シャノンに抱えられて、泣きながら呻いている。
「姫様、がぶっと噛んじゃっていいんですからね。シャノンは壊れませんよ」
前年、メイン妃イオナの出産に付き合っていたから、騎士は心得声でエリンに呼びかける。妊婦が痛みをこらえるために、後ろで抱える者は腕に晒しをぐるぐる巻いて、そこに噛みつかせるのだ。
けれどエリンは、呻くばかりである。
もっと灯りを、お湯をどんどん、あれをここそこへ……ケリーちゃんは一体、どこまで行っているの……。リフィとクレアにてきぱき指示をとばしていた産婆さんが、難しい顔でエリンの側へ屈みこんだ。
「……やはり、こんな地下室はお産に向きません。今すぐにでも、上階へは移れないものでしょうか?」
「だめなんです」
はっきりと、エリンは言った。
「この子は、生れ出た事を誰にも知られてはならないのです」
――強く育ち、己の血の使命を受け止めるまでは……!
痛みに喘ぎながら言い放つエリンを、シャノンは後ろからきゅっと抱き締める。
シャノンの胸もまた、見えない手でぎゅうぎゅうと絞られるかのように疼いていた。
――あなたが叫びかけては飲み込んでいるその名の人と、替わってあげられたらどんなにいいだろう……。
そう、パスクアがエリンを抱き、晒し布を腕に巻くべきなのだ。
騎士は、何とか呼吸を鎮めようと思う。目を閉じ、心の底で主君の名を呼んだ。
・ ・ ・ ・ ・
真っ青な顔で、パスクアは廊下に佇んでいる。
産婆さんとクレアを連れて来たまでは良かった、そこでしめ出されてしまった。
おばさんとシャノン曰く、“イリーの女は男にお産を見られたくない”との事である。
「はぁぁ!? いやちょっと待って、メインの奴はイオナが産む時、ずうっと一緒だったって言ってたぞ!? それこそがっぷり噛まれてっ」
「それは、」
一級騎士はずいっとパスクアを見据えて言った。
「夫の場合だけです」
多分彼女の槍撃も、こんな風に相手の脳天をかち割るのだろう。
「そして、姫様のお言いつけでもあります。パスクアさんは、どうか外でお待ちください。必ずお知らせしますから」
今回ばかりはにこりともせず、冷酷とさえ思える程の生真面目さで言うと、シャノンは重い扉を閉めてしまったのである。
エリンたちの居室同様、いくつかの倉庫が並ぶこの棟の地下階廊下はうす暗い。
一つだけついた蜜蝋の灯りが壁の窪みに輝いているが、外の物音も聞こえないのでは、時刻すらわからない。
もう正午を過ぎたのかもしれないが、全く空腹を感じないから確信できなかった。
がたっ、と音がして振り向くと、小さな姿がしょんぼりと出てくる所だった。
その後ろで、微かにエリンのうめき声が上がっている。しかしケリーが扉を閉めると、それさえもかき消されてしまった。
地下室の厚い壁と扉とが、エリンの命すら吸い取ってしまうような錯覚をおぼえて、パスクアは戦慄する。お産で命を落とした女達の話、子と引き換えに自分の生命をなくしてしまった母達の話の数々。
「あたし、もうだめなんだって」
悲しそうな顔で、ケリーが言う。
「姫様あんまりつらそうで、痛そうで。ちょっと足がすくんじゃったから、おばさんが外へ出ておいでって……」
ぽろっと涙が飛び出して、少女は静かにべそをかき始めた。
パスクアはケリーを抱き寄せた。もうずいぶん前、群衆の中から助け出した時のように、片手で抱き上げるなんてできないくらいに大きくなった。
槍の腕前だってぐんぐん伸びている、……それでも。
「お前まだ十一なんだしな。無理ないよ」
桜色の布が巻かれた黒髪頭を、ぐりぐりなでる。
「十二だようー」
鼻をすすりながら少女が抗議した。
「あたしだって姫様の事、守りたいのに。力になりたいのに」
騎士を夢見る少女はしゃくり上げた。
「俺も、ものすごーくそう思う」
自分の胸の中が空虚に浸食されてゆくのに、パスクアは全力で抗おうとしていた。
――どうとも思われてないとしても、それはそれでいい。ただエリン、お前が苦しい時はせめてそばにいたい、……それくらいも駄目なのか?
ケリーと二人、地上へ上がる階段に腰かけて、ひたすら待ってみる。
後ろから僅かに差す地上の光が、翳って来たようにも思えるが、やはり時間がわからない。
「……お前、腹減らない?」
ぼそりと呟いた。
「全然。パスクアさんは?」
こちらもぼそりと答えた。
「……水くらい、飲んでこようかなあ」
「そうだね。あたしも行く」
痺れ切ったような身体を伸ばす。階段を上りかけたところで物音をきいた気がして、はっとパスクアは振り返る。ケリーがものすごい素早さで、だっと廊下をかけてゆく。
ほそくほそく扉があいて、細身の影が出て来た。
「クレア!」
疲れ切った様子で、彼女はパスクアを見上げた。鈍い灯に、潤んだ眼が輝く。
「坊ちゃまは」
かすれる声が、途切れがちに放たれた。
「亡くなって……お生まれになりました」
ぷいっ、とケリーが駆け出して、どだだだだと階段を上って行った。
なくなって、おうまれに。 ぼっちゃまは……。
娘の言った言葉を、パスクアの心はようやく理解した。
目の奥から、痛みが湧き出る。
「あいつは」
震える両手で、クレアの肩を掴んだ。
「エリンは、無事なのか?」
「はい」
誠実な眼差しで、クレアは即答する。
パスクアはもう、堪えられなかった。その場にしゃがみ込み、――嗚咽した。
――ごめんよ、ごめんよ、本当にごめん。それでも俺は嬉しくって仕方がない、馬鹿みてえに惚れちまったエリンは、俺の女は、生きている。
失われた子に詫びながら、パスクアは泣いた。




