88 イオナの出奔2:別離のはじまり
エリンとシャノン、リフィ、ケリーの四人が起居しているテルポシエ城・旧北棟の地下階一画には、ごく小さいながら裏庭があった。
元々は食料や日用品を備蓄する半地下倉庫のひとつとして使われていたから、搬入するための出入り口が外側にもあって、その周りに申し訳程度の緑がある。
どういうわけだか、その狭い所に小さな林檎の樹が一本植えてある。それが午前中いっときだけ差し込む陽光を浴び、またすぐ後ろの城壁に照り返されて、雪のようにちらちら白い花びらを散らしていた。
リフィが洗濯物を干しかけた所で、パスクアが書類束を持ってやって来た。準騎士は慌てて物干し台を長床几と取り換えて、屋上へと向かった。
僅かに陽のあたるこの時だけ、パスクアとエリンとその内の一人は、長床几に静かに座っている。最近はだいたい、こんな感じだ。
すういと風に乗っかってエリンの頭に着地した花びらを、パスクアがつまんで取った。
その手が作るかげをちょっと見上げてから、すぐにエリンは手元に目を戻す。
「すごく不思議ね。獄中からこんなさっぱりした、時候の挨拶のお便りをもらうと言うのは」
「いや、別に地下牢に押し込まれてるわけじゃない。ルニエ公はオーラン宮に軟禁ってだけだから」
「ああ、そうね……」
前の冬、オーラン公国はエノ軍の包囲を受けて降伏していた。
前哨基地に物資を運び込み、兵団と軍馬の配備も万全整った、と言うところであっさり使者が来て、無血開城となったのだ。
拍子抜けというか何というか、全ての幹部が担がれているような感覚をおぼえたものである。
ただ、開け放たれたオーラン宮にて、上乗せされた貴族・騎士全員分の身代金を前に、ルニエ公は一つだけ注文をつけた。
特権階級としての身分剥奪は覚悟しているが、追放だけは赦してもらいたい、と。
テルポシエの属国的小国、人口も面積もごくごく少ない所である。
富裕な貴族層と経済の結びつきが強いお国柄だから、追放すれば確かに頭脳労働従事者が足りなくなる恐れが強い。
エノ軍は仕方なしにこの数か月間、公を宮の一画に、上層部の騎士らを地下牢に留め置いて、その処置を散々話し合っているのである。
「お急ぎのは、他にないの?」
「ない。オーランのだって、放っといてもいいんだ」
「礼儀だから返すわよ。昨日もらった分は出来ているから、持って行ってね」
パスクアはエリンを見る。ほんとのほんとの本当に、きれいだった。
梳き下ろした白金髪がきらきら光る、すべすべしたゆったり長い薄紅色の長衣を着て、胸元に手首と、その縁を精巧な透かし編みの黒い麗糸が豪奢に飾っている。
たおやかな首には黒いてがらがひと巡りしていて、それが彼女の翼のような鎖骨を際立たせる。うすく化粧までしているらしい、これだけ艶やかに輝く唇を見れば、蛮族出自のむさい野郎でもさすがにわかる。
「なによ」
増大した胸からはすでにお乳が出ているのでしょうか、ものすごく聞いてみたいがここで気合の雷を落とされてはたまらないので、自重する。
「どこからどう見ても、じつにきれいなお姫さまだと」
「ふん」
「最近いつもこういうの着てるけど、どうしちゃったの」
「どうもこうも、股引なんてもうお腹が入らないもの。倉庫にしまわれていた、旧い時代のきものを必死で直して着てるんだわ」
嘘は言っていないけど、大事な所も言わずじまいだ。本当は、パスクアに見てもらいたかった。
出来る限りの“きれいな自分”を、……それを記憶に持ってもらいたくてめかしこんでいる。
彼は小首を傾げる、微笑する、わかったようなわからないような。伝わっているのかもしれない。
無言で、大きな手のひらをエリンのお腹にあてる、ところどころに刺繍の花が浮かぶ長衣に包まれたそれは、大きく大きく膨らんでいた。
妊娠した事はどうか内密にして欲しい、と頼み込んであった。
身重のところに嫌がらせを受けてはたまらないし、実際イリー王族のエリンを白い目で見る傭兵だって今も少なくはない。
安全対策として通し切る自分のわがままを、それでも渋面で呑んでくれるパスクア。
冬の間は外套や肩掛けで育つお腹を隠せていた、だから財産管理庫にも毎日通っていた。
それも三か月前まで、……とうとう階段を登れなくなった。シャノンに抱っこされて部屋に戻って以来、毎朝やって来てくれるパスクア。
仕事を持ってくると言う口実で、少しだけ一緒にいる。
「あなたの部屋にも、上がって行けなくてごめんなさい」
「いやいやいや、ここに閉じこもっている方が大変よなあ」
謝る彼女を、笑ってゆるしてくれるパスクア。
――こんな優しい人に、わたしは酷い事をしようとしている。
その肩のうちに抱かれて、脇髪に鼻を埋めるようにして口づけされれば、エリンはもう泣き叫んで全てを話してしまいたくなる。
何もかも放り捨てて、パスクアとの幸せの中だけに、自分の生命を埋めてしまいたい欲求にかられる。
宿命なんて天命なんてくそくらえ、やりたい奴が勝手にやればいいじゃないか、あんちくしょう。
それでも、彼女は逃げられなかった。
どんな弁解も言い訳も通じない事を、知っていたから。
それは彼女、エリンにしかできない仕事なのだから。
パスクアの顎の下にぴったり顔を当てて、エリンはいとおしい存在ふたつの鼓動を聴く。
「パスクア」
「ん?」
――ああどうか、……どうかこののんきな声の振動を、変わらず再び聴けますように。
「……来た」
つらいつらい辛い別離の痛みが、はじまった。




