87 イオナの出奔1:夏の定期市
※新章に入ります。
※サイドストーリー「白き牝獅子の氷解」を読まれる場合は、こちらの前にご覧になる事をおすすめします。
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(業務連絡)マグ・イーレの皆さん、おつかれさまでした
朝晩、まだまだ毛糸編みの上衣は手放せないけれど、暦の上では確かに夏が始まっている。
テルポシエにもお天気の日が多くなり、園芸好きな地元民はせせこましい露台や屋上で、健気に伸びゆく花々や香草を、目を細めて見守っている。
今年二度目の市が、東門前で開かれている。
テルポシエをぐるりと巡る市内壁と、さらに外界を隔てる市外壁のあいだには、元々いろいろな施設や専門業者の店があった。
それに加えて、近郊あるいは遠方から行商達が集って露店を広げる夏の定期市は、街道へとつながるこの東門の前で開かれる。
白っぽい城壁を背に、いくつもの荷車が立ち並ぶ。その前に羊毛の塊や野のけもののなめし皮、麻生地などをごっそりと高く積んでいる者がいる。
自作の瓶詰めや燻製、乳蘇を台に並べている農家も多い。
もっとお手軽に、背負い籠に花々や野菜、果物をみっしり詰めて、身一つで来たらしい若者やじいさんもちらほらいる。
どこも景気はいいらしい。包囲戦の惨禍を経て、テルポシエの地域経済は完全に戦前の状態まで回復したようだ。
羊毛の山の横から、よちよちっと小さな影があらわれた。
ふわふわした赫い髪に、明るい陽光が宿ってきらきら光る。
目の前の羊毛のふかふかをちょっとだけ撫でてから、小さな娘はにこにこして駆け出す。
この月齢の赤ん坊にしては異様なすばやさ、しかし足取りはいまいち覚束ない。
ふいに横から手が伸びて、娘はひょいっと持ち上げられた。
「だめだよ、お嬢ちゃん。ひとりでうろうろしちゃあ」
自分を優しく、軽々抱っこしたその人を、娘はきょとんと見つめた。
「お母ちゃんが、心配するよ」
全然知らない顔だけど、人見知りとは無縁の娘だ。その特徴ある眉毛に見入って、口をまるく開けている。
「あああっ、見つけたッ」
少し後ろの人だかりをかいくぐるようにして、大柄な女が飛び出してくる。娘と同じ、陽光を宿して輝く赫髪。若者は、目を細めた。
「フィオナぁ!」
瞬時のうちに、娘は母親の腕の中にすくい取られる。
イオナは両目をぐわっと開いて眉毛を寄せ、けっこう怖い母の顔で娘に迫った。
「もおおお、あんたはおむつだって取れてないくせにッ! 何でこう脱走が得意なのッッ」
一方の娘は、唇を尖らせ横目であさっての方向を向いている。言うなれば“見つかっちまったぜ、てへへ”の姿勢である。常習犯らしい。
ふうっと視線を青年に向け、イオナは一般的な母親らしく言った。
「どうもすみません、うちの娘がご迷惑……」
「久し振りです、イオナさん」
彼はそれを遮って言う。
「……えっ?」
イオナは彼を改めて見据える。
成人したばかり、くらいの年頃だろうか。麻衣に肩掛け袋を引っかけた姿、真っ黒い髪を後ろへ流して束ねている。どこにでもいそうな東部系の若者だ。こんな知り合い居たっけか……?
「ああっ、そのまゆッッ」
しかし、松葉のように先の割れた眉毛を見た時、びきーんと記憶が蘇る。
「イスタくん!」
自分でもびっくりするくらい、甲高い声が出てしまった。
「もうっ、どうしてたの? 三年ぶりじゃない? うちの兄たちと一緒だったんだよね!?」
矢継ぎ早の問いに、しかしイスタは答えず笑っただけだった。
「これを」
さっと取り出したものを、フィオナを抱いていない方の右手にそっと押し付ける。
丸っこいものが包まれたような布包み、その薄さにしては持ち重りがするもの。……金属?
「あとで見て下さい。詳しい話は、」
いま彼は笑わず、まっすぐにイオナを見た。緊張して、悲しみを湛えた目で。
「今夕……日没前に、シエ半島のクラグ浜で。待ってますから、一人で来てください」
言い放つ形でふいと背を向けると、ひょいひょいと人混みの中へ消えてしまった。
「えっ、ちょっと……イスタ君??」
イオナは左手にフィオナ、右手に包みを持って取り残される。仕方ない、とりあえず帰って包みを開けてみよう……首を捻って歩き出す。
ほわんと香ばしい匂いが漂って来た。
「お姉さん、網焼きいかがー」
見下ろすと、簡易式の炉の上で何か串ものをあぶっている男が、つば広の帽子の下から彼女に笑いかけている。
「あ、……また、こんどね……」
ぎくりと笑って早足になった。
危ない危ない、フィオナを産んだ後せっかく元に戻りかけているお腹なのだ。お肉の間食は極力避けなくては。
別に気を悪くするでもなく、男はイオナの赫髪が遠ざかるのを見送った。
そこへ反対側から、ふわりと声がかかる。
「ふたつ、くださいな」
ぬーん、と背高い女性と小柄な影が、彼の前でにこにこしていた。
「毎度の事ですけどナイアルさん、あなたもよくやりますよねえ」
小道具をばっちり用意して、の変装の事を言っているらしい。
「へっ、憧れの騎士様に会うためなら何のそのよ。あんたこそ、うまくやったな」
「ふふふ」
藍色の三角巾で白金髪を包み隠し、たっぷりした袋股引に白い前掛けをしめて、今日のシャノンは農家のお内儀さん風を気取っているのだ。
「ま、どうしたって美人なのは隠しようがねえけどよ。座んな、新しいねたがあるんだ」
・ ・ ・
「うぎゃー何これ、お兄ちゃん? めっちゃめっちゃ美味しいッッ」
「ふっ、そうだろ。うちのアンリの特製たれを使ってんだ、うまくないわけがない」
両脇のお下げ髪をびんびん跳ねさせながら、ケリーは鱒の切り身を幸せいっぱいに頬張る。
「皮がぁ!! ぱりぱり、じゅううう!!」
「どんどん食え。そいでな、マグ・イーレがいよいよ撃って来るぞ」
さりげないと言えばさりげなく、ナイアルはシャノンに言い放つ。
「――いつ?」
勧められた腰掛は彼女には少々小さすぎるのだけれど、そこに器用に腰を沈めて、一級騎士は問うた。
「言ってる間だろ。今月に入ってまた、大量に軍馬を買い入れたんだとよ」
焼き網の上の串刺し切り身をくるくるひっくり返しながら、ナイアルは続けた。
「去年オーランが陥落して、エノとの接線が近づいた。ファダンとガーティンローを壁にできるうち、先手打とうってんだな。ランダル王は相変わらず病床にいるらしいが、王妃どもにゃ関係ねぇ」
「引き続き、監視してください」
手の中の串をくるりと回して、シャノンは平らかに告げる。
「あそこの王妃様の事です。まさか、うちの姫様を助けに来るわけでもないでしょうし」
「だよなあ。……で、お姫は大丈夫か? もうじきなんだろ」
首にかけた長い手巾で鼻の汗を拭くナイアルを、シャノンはふと見据えた。まじめな顔だ。
「もう一本、いただけます?」
「早ぇっ」
「ナイアルさん、余計な心配はご無用ですよ。我々とお相手の方以外、誰も知りませんから」
「……いや、そっちの心配でなくてね……、やっぱ不安じゃねえの?」
とびきりうまそうに焼けた一本を選んで差し出しながら、ナイアルはシャノンの表情をうかがう。硬かった彼女のその眼差しが、ふっと緩んだ。
「皆さんは、“搬出路”の確保に専念してくださいね」
「ああ、それはもういつでも大丈夫だ。護衛で保母役はあんたの妹だったな」
「そうです。んんん、美味しい」
もぐもぐしている笑顔に、一瞬二瞬、……もうちょい長めの刹那のあいだ、ナイアルは本気で見惚れた。
――たぶんこの辺が、お前の世界一なんだよなあ。まじでわかるぞ、あんちくしょう。
やがてごくりと飲み込んでから、騎士シャノンは晴れやかな顔を彼に向けた。
「姫様も、リフィも強い娘です。私はふたりを信じています」
鱒の脂がちょっとくっついて、輝いている口元が堂々と誠言を放つ。微塵たりとも迷わない、一級騎士の笑顔。
「必ず、耐えてくれるでしょう」




