86 恋と卵29:フィオナの誕生
「だあああああ」
扉にくっついていた、耳と言う耳がびりびり震える。
きーんと脳内に何かしらの攻撃を受けた気がして、城内最深部のいっこ上、王の居室近くにたむろしていたひま人の……失敬、非番の傭兵達はさっと頭を抱えて沈黙した。
ぎゃ――。
そこへ微かな声が届く。一同、もじゃもじゃしたむさ苦しい顔を見合わせてはっとする。
「来た――ッッ」
「出た――ッッ」
「生まれた――ッッ」
皆どうしていいかわからない、そりゃそうだ。ほとんどが所帯なんて持った事のない独り者の野郎ばっかり、“俺達のイオナ”が赤ん坊を生んでもその喜び方を知らない。
「すげえ! 赤ん坊の第一声よか、母ちゃんの気合の方がでかかったぞ」
「さすがイオナちゃんだ」
「どっちだろう! 男か女か!」
「女だろ絶対! 俺、賭けたんだからなッ」
思わず扉を叩きかける者がいた。そいつの手を、倍ほどもある手がむんずと上から掴んだ。
「皆……、落ち着いて待とうぜぇ……」
美声が降りて来て、扉の前に巨大な筋肉の壁が立ちふさがった。ウーアは満面の笑みだが、その目尻がなぜかきらきら輝いている。
「……何泣いてんだよ?」
少し離れた所から、甥のウーディクが引き気味に問う。
「だって、感動するとこじゃん、ここ?」
――ひーん! 痛ぁああああ!
扉の内側では、メインがぼろぼろ泣いていた。
寝台の上、両脚のあいだにイオナを後ろから抱えて座り込んでいる。
力むたびいきむたび、痛くて痛くてどうしようもない瞬間が迫るたび、晒しでぐるぐる巻きにした自分の腕を、イオナが噛んで乗り越えた。
イリーのお産は生む女も辛いが、付き合う伴侶も巻き添えで痛みを知る、壮絶なやり方で行われる。
そして産む方がイリー人でなくても、産婆さんがイリー式しか知らなければ、当然従わざるを得ない。
産婆さんが何かをさっと持ち上げて、たらいの方へ持って行った。
涙と鼻水で潤みまくったメインの視線はなかなか焦点が合わなかったのだけれど、クレアが真っ赤な笑顔を投げてよこしたのが、ようやく見える。
「がんばったね! えらいよ、イオナ!」
ぎゃーん、か細いくせになかなか威勢の良い泣き声が響く。
産婆、と言っても働き盛りの溌溂としたクレアのおばさんは、たらいを囲むシャノンとリフィの騎士姉妹にてきぱき指示を飛ばして、赤ん坊に産湯をつかわせているらしい。
よく考えたら現在、エノ軍の中に女手というのはほとんどなくて、本当に行き当たりばったりの所を手伝ってもらったのだった。
やがておばさんとリフィが後産の始末に入る、はっきり言ってメインはなにも憶えていない。
ひたすらぐるぐる目を回して、イオナにしがみついたままだった。
それなのに時間は経ったらしくて、やがてイオナの腕の中に、柔らかい布に包まれた小さなものが抱きしめられた。
「女の子だって」
疲れ切った囁き声で、でもありったけの嬉しさのこもった声でイオナが言う。
目を閉じたまま、その子は唇をとがらしてひくひく呼吸をしている。
「……おはよう、よく来たね。“フィオナ”」
遅い時間ではあるけど、確かに朝だ。ずっと前から決めておいた名前を、イオナは呼ぶ。
「よろしくね」
イオナはそこまで言うと、その子に顔をくっつけて、自分もひくひくし始めた。
顔を見なくたって、嬉し泣きしている事くらい、ちゃんとわかる。
メインだってもう、どうしようもなく嬉しくって、どばどば涙が止まらないのだ。
フィオナを抱くイオナの手、そこに自分の手をかぶせ、メインも顔を埋めて泣き出した。
彼の大切な人の、豊かな赫髪のなかに。
――こんなに幸せで、いいのかな。
イオナの中の自然が思う。
――だってわたしの幸せは、感じたとたんに崩れ去ってしまう、明け方の夢みたいなものだったから。
大きな、かさついて冷たい手が、言った。
「ずっと、一緒だ」
そこから、目を閉じても見える風景が広がる。
春の花が咲き開くあの萌黄色の谷あいの原で、二人で視界いっぱいに映した縹色の空。
――そうだ、ずっと一緒にいるんだ。わたしとメイン。
海の挽歌は遥かに遠くへ、かなしみは忘却の彼方へ。
自分がいるのが夢の中なのか、現実なのか。わからないままだったけど、イオナは頷いた。
「うん」
「恋と卵」の章はこちらで終了です。お読みいただき、皆さま本当にありがとうございました。
新章へ入る前に、中編サイドストーリー『白き牝獅子の氷解』を集中更新いたします。
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時系列的にこのタイミングでお読みいただければ、以降の本編の展開がより「うぉう」な感じに盛り上がるのでおすすめです。
引き続き、ぜひ「海の挽歌」の世界をお楽しみくださいませ。
(本編の更新再開は、12月18日(月)0時・12時~です)
門戸




