85 恋と卵28:臨月
「忙しいみたいだね」
にゃー……、猫じみた声がかすかに聞こえる。その辺の城壁に、浜鳥が飛んできているのだ。
潮風が涼しく吹き抜ける廻廊を、イオナはゆっくり歩いている。
「相変わらずだな」
隣を歩くのはパスクアだった。生成色の麻短衣なんて着ているから、日焼けしているのがよくわかる。
「また一つ、オーラン包囲網を増やせた」
彼はこの夏、ずいぶん精力的に外回りに出ている。以前のテルポシエ包囲陣営をいくつか復活させて、そのままオーラン攻略への中継地点にするらしい。毎日現場へ通っている。
「親書は本当にまめに来るよなあ」
夏用ももんが袖をふわりとそよがせ、大股で歩くギルダフが反対側から言った。
「挨拶ばっかりだけどね」
パスクアは肩をすくめる。エリンがいつも返信してくれるから自分も幹部もほとんど構わなくなっているのだが、他国と比べてもオーランはやたら頻繁に親書を送って来る。
「筆まめな女と付き合ったら、そういう苦労になるのかねぇ、何か恐ろしいね!」
ギルダフの言い方がおかしくて、イオナはぷっと噴き出す。本当に怖い人が、恐ろしがるものって?
「まあ、どっちみち戦は避けられないんだし、時間稼ぎのつもりでいるのかもな」
「時間稼ぎって言うのはギルダフ、交渉が進行している所でするもんなんでは……」
「ふーん??」
大隊長は目を丸くして、笑っている。
「はあ、ここの占領からどんだけ経ったんだっけ……一年半?? あの戦後処理が再び巡り来るわけか……。たまんねえな」
最後の方はげっそり声を低くして、パスクアはうめいた。
「俺って実戦担当なのに、何でいつのまにか事務いっさい引き受けてんの? おかしいよな? 俺はアキル師と違って、理術使えねえのよ?」
「ははは、あんまり淀むなよ。イオナの身体に障るよ」
朗らかな調子でギルダフは言った。
「おっと階段だ、俺の手つかめ。イオナ」
「ありがとう」
下階へ向かう螺旋階段、暗がりに目が慣れるまでのその短い瞬間に、油断してはいけない。それにぞろぞろ長い裾でもあるのだし。
「お前はいいよなあ、先行やめた途端に玉の輿乗りやがってよ」
けっ、と後ろを降りつつパスクアは言う。もちろん本気じゃない、元部下の何の気兼ねもいらないイオナだから、ぽんぽん言える軽口だ。
「こんな事なら、俺もいっそ女に生まれときゃ良かったっての」
「あはは、そしたらパスクアさんが王妃さまだったのにね。残念だね」
階段が終わった、中庭はこの廊下をいった先だ。ふうふう。
「大丈夫かよ」
「や~、もう重いしかさばるし……。容赦なくぼんぼん蹴って来るから……」
「お前の子なら、回し蹴りも相当のもんだろうよ」
「初めて蹴って来た時は、前の日食べたうずらの卵が、お腹ん中でかえったっぽい? って感じにささやかだったんだけどね」
元々大柄なイオナの身体が、赤ん坊を内に育ててさらに大きくなっていた。
裾の長い長衣なんてものを初めて着ている、それは周囲の者にも違和感を与えている。似合わないけど仕方ない、これしか入らないんだから。その辺あきらめは良いイオナだ。
「もう、いつ生まれてもおかしくないんだろう? 準備とかできてんのかい」
階段が終わってもイオナはギルダフにすがっていた。やっぱりちょっとしんどい。
「うん。クレアのおばさんが産婆さんなの。いつでも来てくれるって」
イオナの額の汗を見て、パスクアも腕を貸してやった。
「うむ、良い子だよクレアは、実に」
その腕が、ひょいっとねじり上げられる。
「いでででで、何すんだ妊婦ッ」
「なーに言ってんの。それよか最近どうなってるの、例の彼女とは? ああん?」
「どうもこうもねえッッ、放さんかいっ」
ほんとの事である。
「俺はよく知らんけど、さっさと奥さんにすればいいのに。逃げられてしまうぞう」
左目周りの痣の上にくしゃりと笑いじわをこしらえて、善良そのものの爽やか笑顔でギルダフが言う。
――余計な世話じゃあああっっ。
「あ、いたいた、探したよう」
のんびりした声が救出に入った。イオナはギルダフからパスクアから、ぱっと手を放すと中庭への入り際で手を振るメインに歩み寄る。
「おかえり!」
「よう、どうだった?」
「大丈夫、どこにも穴なかったよ」
エノ軍は既存の湿地帯四壁に加えて、いちばん市城よりの第五壁を建築中である。メインはその現場を巡回してきたのだ。
「いまの時期でも、割と足場はしっかりしてるんだね」
屈みこんでイオナのお腹に耳をくっつけながら、ひょろき王は言った。
「お昼、間に合って良かった! 皆で食べよう」
にこりと笑うその顔。見慣れているはずなのに、ものすごく懐かしい人に久し振りに会ったような気がして、パスクアは目をぱちぱちさせる。
「今日は、何のお肉かなあ!」
イオナは悪阻を経験しなかった。安定の食欲で臨月突入である。
「昨日が山羊だったから、別もんだろうよ。そう言や俺、マリューどこに置いてきたんだっけ」
あはは、はは。
陽光の降り注ぐ中庭、小さなメインを挟んでふんわり巨大な赫いイオナと、ももんが袖がひらひら巨大な黒いギルダフが行くその後ろ姿を追いつつ、パスクアは想った。
――良かったなぁ、メインは本当に。
長い間、友のはにかんだような微笑には、何故か哀しい暗い影がつきまとっていた気がする。そして王になると宣言した前後の、あの切るような冷たい殺気。
いま縹色の空の下を歩くメインには、そういう不吉なもの、恐ろしいものの気配はない。
幼かった頃の彼を良く知るパスクアは、以前一度だけ、そういう風に屈託なく笑っていた時期があったのをおぼろげに憶えていた。
――んん、そういやあ……あの頃のメインの“母さん”も。
メインの横、燃え立つように揺れる、イオナの豊かな赫毛に目を細めた。
――あんな感じ、きれいな赫毛の人だったっけ、かなあ。




