84 恋と卵27:しわしわなかの女
肌寒い日である。
うららかな日が三日も続いた後だから、寒の戻りが一層強い。
灰色の空の下、うっかりほころびかけてしまった木蓮や黒梅の花々を見過ごしながら、騎士はてくてく田舎道をゆく。
オーランで提供された馬は、とうとう手放してしまっていた。
冬の間、麻衣一枚でふわふわ浮いてるかの女を見ているのが辛くなり、若草色の毛編み筒外套を衝動買いしてお供えしてしまったのである。
暑い寒いを感じないのだから、はじめかの女は怒った。
『むだ使いは致命的よー!!』
「まあまあ。うすら寒い格好してるあなたを見てると、私の寿命も縮まるんです。これはミルドレの精神的安定のためと思って、ね!」
そう言いなだめると、納得したらしい。やがて気に入ったもようだ。
背中の部分、どういう具合になっているのか、外套には穴も開いていない様子だのに、翼がちゃんと出てばさばさしている。
『ミルドレ! 弱者の困ってる声が聞こえるわ』
「おっ、騎士の出番ですね」
やがて道端に、うずくまる老婆の姿が見える。
「奥様、どうなさいました。お怪我ですか」
「ひえっ、騎士様……」
老女の身なりは悪くないが、趣味はすごく悪い! つなぎもんぺ服で、全身ばら色とは何と勇敢な!
「この先、ルメラ村の知人を訪ねるとこだったんですが……息が上がってしまいましてのう」
「それは大変。お送りしましょう、さあどうぞ」
ミルドレは彼女の前に背を向けて、片膝をついてしゃがむ。
そしてくるっと振り向いた、そのまましりもちをつきそうな程にぶったまげた。
「え――――っっ!?」
目を離した一瞬の間に、老婆の姿は様変わりしていた。
老婆である事は同じだが、かの女である。
「これはまた……、しわしわがいいあんばい、古く漬かった感じになりましたね!」
「ほほほ! こりゃミルドレ、このお婆ちゃんどっこも悪くないぞよ! 日頃の運動不足に加えて、慣れない道のりを来たから、緊張しちゃったのじゃ」
「口調まで発酵している、すごいっ」
「おんぶするよりちっとくらい、自分のあんよで歩き切った方が彼女のためじゃ!」
しゃきっと立ち上がった姿はちんまりしている、同じ髪型なのに総白髪になっていて、そこに深紅の椿の花がぽこんと咲いている。ど派手なばら色のつなぎもんぺ服と、絶妙に合っていた。
「えっ……大丈夫なんですか? あなたこそ、しじゅう浮いてるばっかりで歩き慣れていないのに」
「ぬっ……。だからほれ、わたしの分の運動不足も、これで解消するのじゃ」
ミルドレは、思案顔で首を傾げた。
「まあ……さっきの標識で見ましたが、ルメラ村まではあと三愛里もないみたいですけどね」
「このお婆ちゃん、素敵な杖も持っておるしの。大丈夫じゃい」
「あ、本当。すてっき」
しわしわ老婆は、赤い花模様の杖をちゃきーんと左手に構えると、右手でミルドレの左手を握った。
「さあ、ゆくぞ。ちひろの道の、第一歩!」
「あはは」
ふたりは歩き出した。
「ちょっと嬉しいですよ! しわしわ仕様のあなたも、いつか見てみたいなって思ってたんですけど、言い出す機会がなかったから」
「ほほほ、わたしはしわしわのミルドレも、とっても良かったのう」
「今まで色んな所で、母が母がってだしにして来ました。実際いたら、こんな感じなのかなあ」
「ほんとのお母さんは、テルポシエ墓所ん中じゃ」
「ええ。私が結婚して子ども達が生まれて、それで安心して死んじゃったんですね。今では顔も声も、思い出せないのだけれど……」
思い出せない、……その一言にかの女はぎくうっとした。
――こんなに早く、忘れちゃうものなの!? 本当のお母さんなのに!?
「……でも、たまご食べるとすぐ復活するんですよ!」
「?」
見上げると、いつも通りのほほんとした笑顔の騎士である。
「ほら、私の母ってば無類のうで卵好きだったでしょう? 魚醤に漬け込んでおいたのを、ほぼ毎食たべていたの、憶えてますか」
「あー、おいしいけど、くっちゃいやつじゃ」
「だから何年経ってもうで卵を食べかけると、そこに母が居るような感じがするんです。ミルドレ、塩ふっちゃだめよ、もう味ついてるのよ! ……って。普通のうで卵なのにね」
「へえー、そうなのかえ」
――なあんだ、全然忘れてなんかいないんじゃないの。
しわしわなかの女は、ほっとした。
――大丈夫。ミルドレは忘れない人だ。
「言い出したら、何だかたまご食べたくなってきちゃったな……」
「こっこ飼ってるお家があるといいの。わけてもらうのじゃ」
・ ・ ・ ・ ・
ルメラ村についた。
ふわっと気の付いた老婆は、騎士がここまで運んでくれたと思ったようだ。
その知人のやっている宿屋に、ひと晩泊めてもらえる事になって、ミルドレはものすごく嬉しい。近所には農家もあって、いろいろお安く分けてもらえたし!
「お宿の台所で、卵ゆでてきましたよー!」
笑顔で部屋の扉を開ける。
「黒ぱんと乳蘇で、豪華ごはんですよ! ……って、あらららら」
黒い梁が間近に迫る、天井の低い屋根裏部屋。
白い寝台の上で女はのびていた。
翼まで、へちゃっている……。
『あし、痛いの……』
「えええっ」
『歩き疲れるって、こういう事なのね……』
学ぶって、辛い!!
「桶にお湯もらってきましょう。温めたら、よくなりますよ」
『足、ゆでちゃうの?』
「ゆでない、ゆでない」
ごはんの盆を小さな卓に置いて、ミルドレは鼻歌をうたいながら、女の足裏に手を伸ばす。
疲れた時のつぼってこの辺りかなあ、と見当をつけて力強くモミモミしてみた。
『ぐひゃ、こそばゆーい』
途端に逃げられた、けどミルドレは満面笑顔になった。




