83 恋と卵26:書斎の主と古書店主
「何だい、こりゃ。またえらい量、本を増やしたもんだな」
「ひとの事言えるのかい」
「……言えないね、僕本屋だもの。おや、史書ばっかりだね?」
「実は、奥さんのお父さんが亡くなって、その蔵書をいただいたんだよ」
二人の中年男は、某市某所の某はなれ、書斎の机を挟んで座っている。
つるっときれいに禿げあがった頭の男が、腰掛よこの革鞄の中から布包みを取り出した。
「前に頼まれていた分を、持ってきたよ」
「ありがとう」
大椅子に座った部屋の主は、いそいそと硬筆で受け取りを書く。
「それを仕入れに行く途中でさ、もう本当の本当にすごいのを見ちゃったんだよ、ほんものの怪談だよ」
「怪奇談収集は、ずいぶん前に熱が冷めちゃったんだけどなー」
「どころでないよ、僕がこの目で見た話なんだ。まあ聞けって」
「ふーん?」
「ファダンを過ぎた所で遅くなったからさ、近くの村で一泊したんだ。宿で受付してたら、次の人が来た。そいつ何と、手首に矢羽根を立ててたんだよ!」
「うげえ」
「狩人のしくじりでやられちゃった、相手は逃げてってわからない、なんてのほほーんと言うんだよ。宿の主人がすぐに薬師を呼んで取ってもらったんだ、手首は晒でぐるぐる巻き」
「痛いよお、あれは……」
経験のある書斎の主は、顔をしかめて右腕をさする。
「でも、それのどこが怪談なの?」
「ここからだよッッ。次の日朝めしに下りてったら、その男が食堂でおはようございますと言うわけ。矢羽根が立ってたはずの左手で、牛乳の椀を持ち上げてさあ」
「えっ!?」
「うん、僕も一瞬どちらの手だったっけか、と思ったよ。けどそいつ、どっちの手にも晒なんぞ巻いてない、つるつるきれいな手首をしてるじゃないか。こりゃあ何の冗談かと」
「ひと晩で矢傷が治るなんて、あり得ないよ」
「な? 気味わるいだろ。それと偶然なのか何なのか、その朝その村では、浮浪者の死体が見つかったんだって。怖いから僕ぁ見ないがね、どうもその近辺で畑荒らし、森荒らしをしていたお尋ね者だったらしい。宿の主人に話を聞いてから、恐ろしいですねえと騎士さん頭を振って、旅立って行ったよ」
「矢羽根の男って、騎士だったの?」
「ああ、明るい緑色の外套を着て、短槍をさげていたよ」
明るい緑色? それって草色、テルポシエ騎士の外套では……と書斎の主は思う。
「白金の髪だったかい?」
「いや、何だか妙な色のちりちり髪だったよ。金髪でなし、赫毛でもなし……。何て言うのだろう、ああいうの。まあそれ以外に目立つところなんてない、のんびりした感じの優男だったね」
――なら、エノ軍に身代金を払ってテルポシエを脱出してきた、貴族の子弟かな。
「晩に会った時は、髭がぼうぼうに伸びてげっそりしていたから、僕らと同世代と思ったのだけど。朝、つるりときれいに剃った顔を見たら、存外若いひとだったよ」
「へえ……。そこはかとなく、気持ちの悪い話だねえ」
「うん。……ところでパンダル、そろそろ君も原稿を提出してくれなくっちゃ、次の号に間に合わないよ?」
「……そっちは間違いなく、明らかに気持ちの悪い話だね」
「前回の『徐行哀詩』、あれは本当に良かったよ。人生下り坂、心も体も失速中の中年男の悲哀を、あれだけ格調高く吟じられる奴はなかなかいない」
「ありがとう、心の友よ。でも私は、君の短編『うに工船』がぶっちぎりで輝いていたと思うよ? うに採り海女さんの描写が美しすぎて、ぞくぞくじぇじぇじぇと来ちゃったよ」
「えへへ」
「そうだ、あの破滅的な短編を寄せた新人は、一体何者なんだい? やたら達観しているけど、ほうぼうでならしてきた、つわものなんじゃないか」
「ああ、彼ね! ……君、ガーティンロー最大手のキノピーノ書店を知ってるだろう?」
「うん」
「そこんちの若い手代なんだ」
「えーっっ!!」
「朝から晩まで、社用驢馬に書箱を載せて得意先を訪ね歩く、外回りなんだって。うちへ帰れば、ばたん・きゅうで硬筆を取るのも億劫だから、日中考えついた文章を口述するのを奥さんが書き取って、形にしてるんだとさ」
「壮絶な創作ぶりだなあ……、いやそれ以前に、なんて黒い店なんだ! 若いものをつぶしてしまうよ!? かわいそうに」
「本当だよ、儲かっているのはいいけれど……。そういや、陥落直後にテルポシエ王室蔵書がごっそり流れたの、パンダルも聞いただろ」
「ああ、我々の業界には大激震だったね! あんな頃合で写本の競りをやらかすなんて、エノ軍にはとんでもないのがついているよ? 寝返った貴族あたりが、知恵を貸したのかなあ」
「それをまとめて競り落としたのが、キノピーノの奴らなのさ。まさに金に糸目をつけず……、ああ悔しい。マグ・イーレ随一にして唯一の古書店だってのに、うちにはお知らせすら来なかった。思い出しても、はらわたが焦げ付くよ」
「しかし、ガーティンローのキノピーノか……。情報拠点としては申し分ないね。その手代君、何とか諜報員としても粘り強く活動してもらいたいものだ」
「ああ、闇に乗じた我々の活動を継続するためには、きめの細かい網が不可欠だからね」
ぬふふ、むふふ、と中年男ふたりはもそもそ笑いあった。
「地下活動というのは、実にたのしいものだね。身分も現実も脇に置いておいて、純粋に作品だけを通して他の人と交流できる。窓口役の君には、本当に感謝しているよ」
「何言ってるんだい、パンダル。君がいるから、僕も店を続けられるんだ。マグ・イーレで古書なんてはやらないし、客層も薄いからなあ。それに、君みたいな健筆が鬱屈と埋もれてしまうのはもったいないよ。……ほんとに、この先もずっと隠居し続けるのかい?」
「うん……、本業と言ってもただの押し付けだし。若い奥さんたちの、好きにすればいいのさ」
禿頭の友は、しみじみと目前の男を見る。
「お妃さま達と言えば。やはりまた、戦争になるのかね」
「なるだろうね。オーランはじきに落ちる、パントーフル先生が心配でならないよ」
「……」
「ファダンとガーティンローを盾にできるうち何とかこちら、イリー側から強く叩いておかないと。どこもかしこもあの蛮族に吸収されてしまう」
「君、デリアドへ逃げられないのかい? あそこはここ以上に地の利がかたいし、その気になればティルムン方面へ抜けられるかもしれない。息子さん達が向こうにいるんだから、伝手は何とでもなるよ」
「いやいや、いくら隠居の身とはいえ、私がこの国を離れる事はできないよ」
「心配だよ、君が。僕はただの平民だし、うまく立ち回ればエノどもの下でだって、商売を続けて生きてけるだろうさ。でも君は、……。ほら、テルポシエの、ウルリヒ王のことがあったし……!」
「ちょっとちょっとちょっと、泣くんじゃないよ、私のためなんかに」
「友だちじゃないか」
「そうだよ。友だちの君と、ミーガンと、地下諜報員の皆がいてくれるから、私もこの惨めな現実をどうにか生きていられるんだ。だからいいんだ、そういう風に終わるとしても。……ま、当分先の話じゃない? 本当にきな臭くなってから哀しもうよ」
「そうだね」
手巾を目に当てて、友は言う。
「じゃあパンダル、とりあえず原稿をおくれ」
「うーう」




