80 恋と卵23:祝杯の話
毎日、どんどん日が短くなっていく。
夕食の煮物の仕込みも終えてしまって、北区の酒商“みつ蜂”の店内には通りがかりの湯のみ客が二組、父は勘定長台越しに仕入れ先の人達と話をしている。
そろそろやどりぎを飾る季節、薪は十分に備えてある、セインちゃんに編んであげる首巻は何色がいいかなあ……。
手持無沙汰に暇な、この夕刻前の一時。器をきれいに拭きながら、クレアは浮かぶに任せて色々な事を思っていた。
かたん。
ささやかな音をたてて、扉が開いた。
そこでぱっぱと上衣の雨滴をはたき落とし、背の高い男が頭巾をはがしながら入って来る。
「いらっしゃいませ」
父娘の声が重なる。
「やあ、元気かい」
パスクアはまっすぐに、クレアの前に立った。
「はい。手巾、お使いになりますか?」
「いや、大丈夫。なんか適当に、香湯一杯もらえる?」
「はいっ」
娘はくるりと翻って、パスクアは親父に目線で挨拶する。
市内親元に帰したはずなのに、なぜか城内でしょっちゅう見かけるクレアの事は、後からイオナに聞いた。
以来店にはちょくちょく寄る。最重装備でもしていなければ、市民は誰もパスクアに気を留めないらしかった。
あれだけ怖い経験をしたと言うのに、クレアも今では慣れてしまって、さばさばと彼に話す。
親衛隊の娘たちとも仲の良いままだから、自分とエリンの事もしっかりのみ込んでいるらしいし、場合によっては細かいイリー側事情の説明役になってくれる事もあって、実はパスクアにとって貴重な情報源でもあった。
熱湯を杯に注ぎ込んでいるその後ろ姿、明るい金色の髪を青いてがらですっきりまとめている立ち姿だけ見れば、確かにエリンに似てはいる。
「できました、熱いですよう」
しかしくるりと振り返れば、それは紛れもなく町娘のクレア、きびきび立ち働く器量よしの看板娘クレアである。好ましさに満ち満ちた子だけれど、やはりエリンとは別人だった。
「じゃこう草に、枸櫞を合わせました。蜂蜜いるんですよね?」
壺の中から二匙目をとき入れてくれるクレアに、パスクアは言ってみた。
「実は、折り入って相談というか……。君の知恵を借りたいんだけど」
ふっ、と娘が顔を上げる。
一瞬目が合ったその間に、クレアの表情が緊張した。
「ああ、例の蛇酒の事ですね! 先方の卸にちょっと問題がございまして、こちらへどうぞ。帳面ご覧にいれます!」
ちょっと、いやかなり大きめの声で言いながら、作ったばかりの杯を持って長台の隅の方へとパスクアを誘導する。
――は? 何の話?
そこでぐうっと声をひそめて、クレアはパスクアに囁いた。
「あそこの、角席でお湯飲んでる奥様方……。何となく反・旧貴族派っぽい感じがあるので、聞かれないよう念のためです。姫様の事でしょう?」
――おお、何という気の利かせ方!!
パスクアは内心ちょっと感激した。
「あ……あのね、実はエリンに、……」
「結婚を申し込まれたいとッッ!?」
囁き声なのにこぶしが効いている!
あまりにものわかりの良すぎる娘に、パスクアは思わず口を四角く開けた。ちょっと先行要員に勧誘したい!
「……すげー、何でわかるの。君ってそんなにきれきれな子だったんだ……?」
「恋する女子勘ってやつです。……で?」
その真剣さにむしろ押されながら、パスクアは言った。
「俺ね、こんな外見してるけど、読み書き以外はほとんどイリーの事知らんのよ。しきたりとか全然わかんないから、どうやったらエリンに嫁さんになってもらえるのか、教えて欲しいんだ」
眉根をぎゅっと寄せたまま、クレアは頷いて指であごを挟む。
「そうですね……、お申込み自体に、特に決まったお作法はないんです。よく言う贈り物も絶対ではないですし。……双方が同意さえすれば、旧貴族や市民の場合、会館で書類を作って署名するだけです」
「それだけ? 割とさばさばしてるんだ?」
「あとは、親しいなかで美味しいものを食べてお祝いしたりしますけど、その辺はおうちの方針次第かしら? ……あ、でもパスクアさんはイリー人じゃないんですよね。イオナと王様の時みたいに、別に書類も要らない気が……あ、あら? でも姫様は……」
「あ、やっぱりこんがらかる?」
その時、クレアの父に別れを告げて、仕入れ先の二人が出て行った。
「お客様、いま担当の経験者とかわりますので、どうぞそのままー!」
クレアはまた大きな声で言うと、パスクアの前へ親父を引っ張って来た。
「ああ、そりゃ駄目ですね。イリー市民規律の外の話だから、婚姻はできません」
親父は軽く言うが、パスクアは目の前が暗くなった。
「ちょっと、何しょげてんですかい。結婚できないってのはあなた、規律にのっかってる場合だけですよ」
「?」
「あっ、他の都市に行けばいいって事?」
クレアがはっとして言った。
「違うよ。この辺のイリー都市国家群は、だいたい共通の規律使ってるからな。……まあ、マグ・イーレやデリアドまで行きゃ、多少は異なるのかもしれんが……」
――敵地だよ……。
「……とても、エリンを連れてはいけないよ……」
「いやいやいや、だからね旦那、そこであたしら酒商の出番なんですよ」
「……?」
「最近はだいぶ珍しくなったけどね、あたしらの若い頃にはけっこういたんですよ。貴族と一緒になりたい平民だとか、遠方から来た外国人と結婚したいって人が。そういうのはもちろん市民会館では相手にされないし、家族にも許されないから、まあ駆け落ちするしかないわな。けど一応のけじめとしてね、どこかで“祝杯”をあげていく。酒商に立ち寄って、その場に居合わせた客みんなに、一杯分おごるんです」
「へえ?」
「そうするとね、おごられた客は皆、その二人の結婚の生き証人として、味方になってくれるって仕組みなんですよ。全く見ず知らずの他人でもね。こういう形での結婚も、ありっちゃありでしょ? 書類がなくたって、後から罪に問われる事なんざありませんや」
親父はひらひら手を振った。
「面白い風習だなあ、それ。ちなみにたまたま、結婚大反対の人が居合わせてたらどうなるの? 花婿の元彼女とか……」
「そういう人は、黙って店を出て行くだけですよ」
「そうか……」
正攻法ではないが十分な手段があると思えて、パスクアは心が軽くなる。
「じゃあ希望を持って、とりあえずエリンに申し込んでみよう」
「え、そっちがまだなの」
拍子抜けした親父をぐうっと押しのけて、クレアが勘定長台に身を乗り出した。
「そう来なくっちゃ、パスクアさん! あたし絶対、姫様よろこぶと思いますよ!」
「うん、がんばるよ」
「応援してますから!」
純然たる娘の笑顔が、何だか目にしみてパスクアは嬉しかった。
晴れやかになった若い男の顔を見て、親父も顔をほころばせる。
「にしても、真面目な人だね。ちゃんと先方のしきたりに気を遣ってさぁ。今はそういう人も、少なくなったと思っていたけど……。あんたみたいな人が昔いたよ。若い時分にオーランの店で修業してたら、店の旦那が不在で一人の時に祝杯頼まれちゃって、焦ったな……。蜂蜜酒を三十人前、だぜ?」
「そりゃあ骨折りだったのね、おとうさん!」
「ところがその駆け落ち夫婦もんな、気をまわして、何と手伝ってくれたんだ。でかい旦那が地下倉から瓶を運び上げて、ちっちゃな嫁さんが腕まくりして枸櫞を切ってよ。あれはいい風景だった」
「へえー」
親父がほのぼのと思い出していた、遠い昔のその若い夫婦もの。
ぽっちゃりしたイリー娘の豊かな白金髪の先は、仔犬の尻尾のようにくるりと丸まっており、そして背の高い男の首には山型突起に覆われた首環がはまっていた。
親父はひとの服装にさほど注意を向けない人柄だから、いま目の前で香湯を飲んでいる若い男が、同じ首環をはめている事に全く気が付かないでいる。




