75 恋と卵18:断崖で吠える女
「先日は誠に、おめでとうございました。どうぞ末永くお幸せに」
「どうもありがとう!」
テルポシエ市内北区、酒商“みつ蜂”。
勘定長台を挟んでクレアの父、イオナとメインの笑顔が向かい合う。
「急に追加配達お願いしちゃったそうで」
「あはは、結婚祝に蜂蜜酒の注文忘れるたあ、料理長さんよっぽどいっぱいいっぱいだったんだなぁ」
「そう! 何しろね、お肉の量が……」
「ちょっと……」
言いかけたメインの腕に、イオナが触れて制したその時、後ろの厨房からクレアが出て来た。
「はい、かみつれと香水山薄荷です」
ぱんぱんに膨らんだその二つの布袋の中身を見てから、メインは頷いた。
「確かに。どうもありがとう」
持参の籠に、大切そうに詰め込んでいく。
「あの、差し出がましい事を申しますが」
親父はそうっと言う。
「テルポシエには薬種商も多くございます。治療にお使いなら、加密列も香水山薄荷も、そちら専門店で容易にお求めになれるもんですが……」
「あ、知ってますよ」
治療師の顔で、メインは答えた。
「でも値段が三割がた高かった。薬と見るか香湯として見るかで、ずいぶん変わっちゃうんですね。俺はそういうのこだわらないので、ものが同じなら断然お得な方で買います」
「は……さよですか」
何だかやり手主婦のような王様だなあ、と親父は思う。
「これから先、またお世話になると思うけど、よろしくね」
メインはクレアに笑いかけた。
「はい、任しといてください」
「それじゃあ、また」
イオナは声まできらきらしている。
「毎度、ごひいきに」
かたりと閉まった扉を見ながら、親父は顎をしごいて思案する。昼の準備にはまだ早いし、店の中には湯のみ客が数人いるだけだ。
「ほんじゃあ、花湯香湯の材料と香辛料、余裕もって在庫見といた方がいいな」
「“紅てがら”さんへの発注表も、見直した方がいいかしら?」
「ちょっと確認してこよう。ここ頼むぞ、クレア」
「はい」
親父が裏に引っ込むと、脇からクレアに声がかかった。
「さっきの女の子は、お友達かえ。背が高いねえ」
「え? ……あ、そうですね」
さらに上背のあるシャノンを知っているからクレアはあまり意識していなかったけれど、勘定長台の向こうにいる年配女性はちんまりと小柄だったから、イオナに驚くのも無理はなさそうだった。
それにしてもちょっとびっくりした、このお客さん一体いつ入って来たのだろう? 全然気が付かなかった。
「蜂蜜酒の白があったら、わけてもらえるかしら」
ひんやり涼しい朝だから、お婆さんは寒いのだろう。目元まで陰になるほど、上着の頭巾を深く下ろしている。
けれど厚く巻いている首の布を少し下げて話すのを見ると、口元は存外に若い女だった。
「はい、ございます」
「うっかりしていて、容れ物を忘れたのだけど……」
「大丈夫、それもお分けしますよ」
素焼きの細壺に酒を注ぎ始めると、女が続けて言った。
「一緒にいた男の子、あたしゃどっかで見た気がするんだけど、誰だっけかなあ……」
「ああ、メインさんですよ。新しく王様になった方」
女は口を開けたまま静止する。
酒をこぼさないよう、壺を見つめ続けるクレアは気付かなかった。
「……エノの息子の?」
きゅっと蓋を閉めて、クレアは顔を上げる。
「そうそう。一緒にいたのは奥さんで、二人ともとっても良い方なんです」
キヴァンを連れて来たメインの疑惑についてはわからないままだけれど、この店で自分と接する時のメインは、純粋に良いお客さんだったから、クレアは素直にそう言った。
言ってから、しまったと思った。目の前の女は、僅かに唇を震わせている。
――どうしよう、旧貴族派の人だったのかしら。
「あの、お客さま」
少しおろついて声をかけたクレアに、女ははっとした様子だった。
「ああ、どうもありがとう。おいくら?」
その拍子に、泣き笑いに近いような優しい顔が少しだけ垣間見える。
蒼い瞳が潤んでいた。
・ ・ ・ ・ ・
「……ってなわけでさあ、いわゆる玉の輿なわけよ」
低い声で続けながら、女は細壺に口をつけて、ぐびりとあおった。
口元を手首でさっと拭いた後、女はぼうっと前を眺める。
夏の日暮れ。すぐ上、迫るかのように低く浮いている雲々に夕陽があたって、桃色に輝いている。
下にあるのは穏やかな海、その濃い青色を映す女の瞳もまた、蒼く潤んでさざ波を立てている。
水平線と平行に切り立った崖っぷちに、大小の後ろ姿が座り込んでいた。
イリーの盛夏、短い夏にうだるような熱はない。優しい陽光が満ちているその瞬間にも涼風が吹いて、女は外套を手放せない。
けれど、どうにもたまらなくなったらしい。すぱっと頭巾を跳ね上げて、女はあの髪を空の下にさらした。
赫毛でも金髪でもない、その中間が段々になっている、お手入れ十分さらさらの髪を。
「あたし達の! あたし達のイオナちゃんがぁぁぁぁぁ、王様のお嫁さんよッ!? 王妃さまよッッ!?」
ぶわあと涙が噴き出した。
「相変わらず、光々しいおっぱいだったわよ! 髪は自分で結わえらんないから性格むき出しの超雑まとめ、でも何なのあの、しあわせそうな笑顔はぁぁぁ!! いや実際幸せなんだわ! これまで見た事もないくらいか――わいい顔で、旦那さんを見下ろしてたのよぉぉぉ!!」
≪見下ろすって?≫
「あー言ってなかった、イオナちゃんの方がだいぶでっかいのよ。つうか旦那が軽量型なのよ、むしろあたしと並んで釣合い取れる感じなの! って並ばないけどね? 後ろから見たら女の子みたいでさあ、前から見てもつるつるでかわいくってさ、あのくそ親父と何をどうしたら親子なのん? ってくらい、本当に似てないんだわよッ。ひーん」
むせび泣くアランの背を、ヴィヒルの大きな手のひらがさする。
口に木匙をくわえたまま、もう片方の彼の手は、素焼きの壺をしっかり握りしめている。
「それにしても、あのくそ親父が転落死ってありえないわよ。おかしいわよ。絶対に何か裏があるわ、そういうからくりと疑惑の臭いがぷんぷんするわ。まあ公に言ってないだけで、幹部どもは何ぞ知っているのかもしれないけど……くさいわ。は? 何言ってんのよヴィーは臭くなんかないわよ、かわいい雄の匂いがそこはかとなく漂ってるだけよ。……いやそこ赤くなる所じゃなくてね、
……で、ほうぼう聞いて回って裏取ったんだけど。実際にやつとは完全に別ものなのよね、やってる事も親父とは一線を画してる。老害世代をどんどん削ってるあたり見ても、母体としての賊時代を思いっきり帳消しにしたい感が垣間見えるの、ちょっぴりたりとも尊重なしよ。
まあそうでもなきゃ、そもそも親父が死んですぐにお嫁をもらってお祝いだなんて、しないわよね? 喪に服すってやつは? 誰もそのへん突込み入れなかったのかしら、真面目なパスクアさんとか? いや駄目だわ、あの人ああ見えてあたしと同い年の若者だから、なかなかそんな慣習的な所まで頭が回らないんだわ……あの人も早くいい人ができるといいわね……。
……ええと何だっけ、そうメイン新王。たぶんね、たぶんなんだけど……イオナちゃんを幸せにし続けてくれると思うのよ。散々外見の事言ったけど、そのへん裏切ってめちゃんこ強いらしいしさ? 精霊使いよ、信じられる?」
≪ほんものなんでしょ?≫
ヴィヒルはアランに壺の中を見せた。空である。
「うん、あれはばりばりの本物よ。もう黒すぐり食べちゃったの? ええと……あとはね、あんずと苺と、丸すぐりが残ってるわよ」
アランは脇に置いた麻袋をごそごそやる。
≪丸すぐり、ちょうだい≫
「えー、これ一番高かったやつよ。最後にしない? うん、じゃああんずね、はい。蜜煮ばっかり、よくそんだけ食べられるわねえ」
≪それ言ったら、アランもよくそんだけ飲めるよね?≫
「けっ、やけ酒だからいいのよ今日はッ。ヴィーだってやけ食いでしょッ」
ぐすっ、と再びアランはしゃくり上げる。
きゅぽん、と新たに蜂蜜酒の封を開けた。
「……だから、さあ。あたしらがあの事言わなきゃ、あの子はメイン王のもとで幸せなのよ」
ぐびり、ぼろぼろ、ぐすん。
嬉しさとかなしさと寂しさ、いとおしさ。最惜しさ。
飲んでいるものがそのまま涙に変わっているような気がして、アランは目を閉じる。
「やっぱりあたし達は、このまま消えよう。マグ・イーレでもフィングラスでも、どこか遠い所へ行きましょう。
……あ、マグ・イーレは駄目だわ。福利厚生があるのはいいけど、報酬がしょっぱすぎるって有名なんだわ、特産品の塩にかけてんのかしらね? 第一あそこは、ゆくゆくはテルポシエの敵になるんでしょうから……って!! 何言ってんのよあたしったら、傭兵はすっきりさっぱりやめるんじゃないの、もう~」
≪――会いたかったな。イオナに≫
「ほんとね。でも一緒にいたら、隠しごとなんてできないじゃない。絶対にあの子に見抜かれるわよ? そうなったら、せっかくあの子が手に入れた幸せが壊れちゃうんだわ。そんなのだめよ」
≪――≫
「泣くんじゃないわよう! 大の男が! は、あたしもぼろぼろって? 小さい女は泣いたっていいのよ! いや嘘よ! 人間すべからく泣いていいのよ! ……だからさヴィー、辛すぎるけどここが潮時よ。あたし達は、あたし達の道を行きましょう。後始末をしっかりしてね。
……うん、と言うのはね、どうもあたし洞窟の中で、誰かに呼ばれたようなのよ。アランちゃ~~ん、ってかわいい思春期男子に呼び求められた気がするんだわ? あ、ヴィーもそうなの? じゃあやっぱり、誰か知った人に見られたんだわね。キヴァン回復毒も、あんな昏睡状態になっちゃうの考えものだわ。まあおかげで助かったけどさぁ?
海賊どもの林檎蒸留酒で、傷を消毒できたのもすっごい運が良かったわよねえ。ヴィーもあたしもあんなに血を失ってたんだし、あそこで生き残れてなきゃ、今頃蟹の餌だったわよ。ふん、ジュラの野郎は水棲馬にでも喰われてれば良いんだわ。とっときのキヴァンの五番使ってやって、せいせいした……。過去とはもう、ここで訣別ってやつ」
すっくと立ちあがり、アランは空になった素焼き壺を、海にぶん投げる。
「うおおおおおおおおおおっ! イオナちゃあああああん!!」
隣のヴィヒルが少し揺れるくらい、凄まじい大音量でアランは吠えた。
「あたし達の! いとおしい、最惜しい! イオナちゃあああああん!!」
見上げるヴィヒルの目に、子どもみたいに泣きじゃくるアランの横顔がうつる。
「しあわせに、なるのよおおおおおおお!!」
ぱたぱたっ、と後方で音がする。
気絶した浜鳥が数羽、草の上でひくひくしていた。
半分残った苺の蜜煮の壺を丁寧に横に置いてから、ヴィヒルも立ち上がる。
背中からアランをぎゅーと抱いた。
妻のつむじ辺りに、ぽたぽた滴が落ちる。
「あたし達の報酬金!! 何とか回収して、代わりに使ってええええ! お祝儀と思えば、諦めもつくわああああ」
うわーん、と泣き出すアランを抱き締めたまま、ヴィヒルも水平線を見つめていた。




