72 恋と卵15:理解
「どこか悪いの?」
すぐ側、下の方から言われて、パスクアはもそりと目を向ける。
ひょろき友のメインが、自分を見上げている。
「ちょっと疲れてて」
ちょっとどころではない。
昨夜は結局よく眠れなかった、エリンの謎行動で悩まされ続けた。
とりあえず親書は全部メインに署名させて、この後の軍会議で皆に見せてから、封をして送り付ける。
……読めない奴がほとんどなのに、見せる必要あるのだろうか、とふと思う。
「疲れてるのに眠れないって言うんなら、香水山薄荷の香湯をあげるよ?」
中広間の長卓上座に座るメインは、見るからに健康そうである。肌も髪もつやつや、何か良い事あったのだろうか。
いつも持っている薬籠をがさごそやって、取り出したものを布切れに包む。
「これ、お湯につけといてから飲むべし」
「お前、元気ね」
メインはささっと周囲を見た、長卓反対側で、ギルダフとウーアがくっちゃべっている。
低い声で言った。
「イオナがさあ、ようやく一緒の部屋に住んでくれるって」
「ほー」
実に似合わないこの二人にも、慣れて来たところであった。
パスクアが知る限り、地味なこの友人に女性ができたのは初めてであり、しかもそれが元部下のあのイオナだと分った時には、本気で顎が外れそうな位に驚いた。
しかしまあ、何にせよ仲が良いのは大変よろしい事である。
――俺は、姫に謎の夜這いかけられて困ってんだけど……。
言ったらいいものかどうか迷っているうちに、どやどや別の幹部陣が入って来て、そろそろ会議が始まる。
また来る、とは言っていたが続く二晩、エリンは来なかった。
財産管理庫は避け通して寄り付かなかったし、日中はわざと旧本陣への巡回に行く。
今顔を合わせたらどうなるか、それを考えるのが煩わしかった。
「でもさぁ、やっぱりお前さんが目を通さにゃならん分があるわけで」
夕刻、帰城した所をエルリングにつかまって、またしても書簡束を押し付けられる。昨日の分もしっかり残っているからたまらない。
小雨に濡れてもいたし、疲れ切って自棄気味のパスクアは、久し振りに髪を完全に洗う事にした。
予備役に、多めに持ってきてもらった湯を見て思う。
「メインにもらったやつ……ほんとに寝られるんかなあ」
それが本当に効いた。
陶器椀の中に淹れたものを、割とうまいじゃん? と思った所までは憶えている(気がする)。
しかし突如として、夢の中に彼はいた。
遠い記憶の断片である。
深い森の中の一軒家、風の通る音やけものの吠える声が遠くに、ぱしんと暖かくはぜる炉が近くに聞こえる。
そろそろきつくなってきた、赤子用の寝籠の中で彼は眠りに落ちる寸前、後ろの方で母と父がひくく言葉を交わしている。
母がすぐ近くに座っているのがわかる、自分のもしゃもしゃとは別の、母のもしゃもしゃ髪が籠にすれる微かな音がするから。
――俺はおまえが、いとおしい。
――わたしは、あなたがいいの。
まだものを話せなかった頃の記憶だから、両親がべつの言葉で全く同じなかみを言っている、という事はわからなかった。
――大丈夫?
別の声が遠くから聞こえて、……パスクアは現実に帰って来た。
「あれ……」
毛皮敷の上にのびていたらしい、顔を上げるとそこに小さな顔があって、蜜蝋の手燭を掲げて自分を見下ろしていた。
「勝手に入っちゃってごめんなさい、あの……扉の隙間からあなたが倒れているのが見えたから、もしかして何か大事なのかと、……」
今夜は見慣れた格好をしていた。
麻の短衣に細身の股引、髪はきれいに編まれている。
「お手伝いが要るかなって……、 ……」
何かを必死に我慢しているように、エリンは荒く息をし、震えている。
「うあっ、は、っは、はあー!!」
エリンが噴き出した。
「あはははは、はははははぁー!」
いまだぼんやりしているパスクアには、何が何だかわからない。
とりあえず毛皮敷の上に起き上がると、もうそこで腹を抱えて爆笑している。
「……どうした?」
ひゅっ、と息を止めてエリンがこちらを見る。
その瞳がうるうると泣きそうになったかと思うと、
「ぬはははははははぁぁぁぁっっっ」
また笑っている。
「あなたのぉぉぉぉっっ、その、髪ぃぃぃぃぃ」
「は?」
生乾きの髪が元通りになる所だった。
「何かおかしい?」
「す――っっっごく、素敵っっっ」
パスクアはぽかんとした。
母ちゃん譲りのこのすさまじい分量の巻き毛、いつもはぎっちり編んでいる長いくるくる白金髪が、エリンを喜ばせているらしい。
ほとんど床にのたうち回るくらい、つんとすました態度も挑戦的な視線も、全てかなぐり捨てて素のなかの素で笑い転げてしまうほどに。
――……あれ? 母ちゃん??
はっとした。
――わたしは、あなたがいいの。
――わたしは、あなたがいいの。
――わたしは、……あなたがいい。
胃じゃない、胸の底が、……心がつうと疼いた。
「ごめ……ごめんなさい、わたし、笑い上戸で……。 ふあははははは、あああ、顔がぁぁ! 髪に埋まってるしぃぃぃ! すーごーいー」
ふーふーひくひく、ともはや苦し気に、何とかエリンは笑いをおさめようとしている。
「やっぱり、わたしは、あなたがいい。……ひひひひひぃ」
だめだ、また笑いの発作が再開してしまった。
――なあんだ……。そうだったのか、エリン。
ぶきっちょ姫が気合を入れ過ぎて発したために、全く意味をつかんでもらえなかった正イリー語の恋の表現は、ここに来てようやくパスクアに理解されるに至った。
そうして彼は、今までかつてない程、間抜けな音が自分の胸中に響くのを、確かに聴いたのである。
両腕を広げてそこに抱きしめても、エリンはやっぱり笑っていた。