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海の挽歌  作者: 門戸
恋と卵
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71 恋と卵14:売られた喧嘩

 春の宵が降りる。


 陽光のあたたかさが石壁にこもったようだ。エノ傭兵たちも機嫌よろしく晩の食事をとった後、中庭で一服やったり、城外へ繰り出している。


 しかしながらがらんどうの自室に籠り、パスクアは羊皮紙と筆記布とに埋もれていた。



――終わんねぇぇぇぇッッッ。



 識字率の低い軍内部のこと、パスクアに書類関連の一切合切が負担としてのしかかっていた。もう数か月、こうして夜なべするのが習慣になってしまっている。


 今さらながら故アキル師の偉大さ有能さが、身にしみてわかった。



――こんな膨大な量の仕事、どうやってこなしていたんだろう? やっぱり理術駆使?



 計算方面は出納係エルリングが奮闘してくれているし、野外巡回の合間を縫ってウーディクもよく手伝ってくれるものの、どうにもこうにも追いつかない。


 正直、エリンとシャノンの筆力はありがたかった。読解要約と文章作成それに清書、これを全部頼めたらどんなに楽だろうか。


 けれども、と思い直す。



――あれは、向こうのお(ひい)さんなわけで……。



 信頼しきる事は危険だった。


 誰かが言ったように、あの娘はいつかエノ軍の寝首をかく気でいると、パスクアは心のどこかで思っている。


 それに今こなしている仕事と言うのは、言い換えればテルポシエの破滅の後処理と、イリー諸国の次なる瓦解の下準備である。こんなものを押し付けられて、冷静にほいほい文の書ける女とも思えなかった。


 前王の葬儀の後も、あの挑戦的な瞳は変わらずにパスクアを見る。


 憎まれているのかな、と思う。そりゃそうだろう。



 こんこん、とくぐもった音がした。


 空耳かと思ったらまた響く、こんこん。



――え、いや待て緊急事態ッッ!?



 瞬時に跳び上がって扉を開くと、伝令ではなくて白っぽい顔が目を丸くしていた。


 驚いたのはパスクアも同じだ。



「エリン? 何、なんかやばい事がッ?」



 今、エリンと親衛隊の三人は部屋をうつって、旧北棟の地下階に起居していた。パスクアが使っている本城南側の上階部屋、ここまではけっこう距離がある。


 こんな時間に一人で来るわけもないのだから、当然後ろにシャノンがいるのだろう――そう思って扉を押し広げようとしたら、エリンがするりと入り込んで、後ろ手に閉めてしまった。



「緊急ではないけど、大事な話があって来ました」



 いつもの三つ編みではない、洗い髪をうしろに束ねただけで、深い緑色の大判肩掛けをきっちり巻き付けている。


 しかし、蜜蝋みつろうの灯にきらめく瞳には、いつもと変わらない挑戦が陣取っているのだ。



――うおう、何だ。



「まずは――」



 エリンは視線を外し、きっとパスクアの背後にある羊皮紙と筆記布の山を見る。



「少なくとも、オーラン返書は明日いちで出したいんでしょう。書くわ」



 肩掛けの下からさっと出した右手に、黒羽の硬筆が握られていた。


 なりふり構わない、とはこの事だ。


 疲労に蝕まれたパスクアの心は隙全開で、姫に言ってしまったのである。



「ありがとう、助かるッ」





 だいたいの草案は出来ていたのだけれど、どうしても羊皮紙上への清書を後回しにしていたルニエ公への返書を、苦もない様子でエリンは書き上げた。



「つぎッ」



 オーランの後を追うようにやってきた、やはり内容のないガーティンロー・ファダンからの親書返しも、ほぼ同様の書式でばりばり仕上がってゆく。



「メインという人の署名は、どのくらい幅をとるのよっ」


「本人と同じで、か細い感じ?」


「じゃ、あんまり余白を取らないでおくわね。明日の朝いちばんで署名書かせて封じて、早馬よ」



 十数通あまりの公式書簡が、ものの半刻で仕上がった。しかも美しい出来栄えで。


 エリンは黒羽硬筆の先を、ふう―っと吹いて乾かしている。



「本当にありがとう、徹夜しないで済んだよ……」



 実のところパスクアはちょっと、かなり、相当感動していた。


 自分から進んで残業をして、瀕死の(?)自分を手伝ってくれるとは、本当はこいつは良い奴なのかもしれない、と思う。



「お疲れさん。もうずいぶん遅いし、送ってくよ」



 簡易文机を挟んで、毛皮敷の上に二人は座りこんでいたのだけれど、立ち上がりかけたパスクアの右手を、エリンの左手がさっと押さえる。



「そのまま。わたしの方の大事な話が、これからよ」


「あ、ああ。そうだった……どうした?」



 座り直したパスクアを、真正面からエリンが見つめる。


 すう、はあ、深呼吸をしている。



――ええっ? 何、また気合入れてんの!? どんだけ重要事項なんだ、それとも俺を殺す気とか?



 びくりとして思わず自分の鎖の位置を思い返す。すぐ後ろの床だ。



「わたし、あなたがいいの」



 心身ともに身構えたパスクアに、エリンは硬く言い放った。



――はい?



 ものすごい眼力だが、言われた言葉はパスクアには曖昧である。


 姫はもう一度言った。



「わたしはあなたがいい、……だから」



 ふう~~、とまたしても深く息がつかれる。


 何を言いたいのだろう、この娘は。


 ぺちり、と音を立てて黒羽硬筆を机上に置くと、エリンは両手でもって深緑の肩掛けをするりと外した。



「だからパスクア、あなたと寝ようと思って」



 きらきら挑戦を発するみどりの瞳の下、小さな翼をひろげるように、美しい鎖骨が蜜蝋の灯りを受けている。



――ぎぃやああああああああ、



 先行隊長は口を四角く開けて、永遠とも思えそうな一瞬のうちに凝固した。


 パスクアとエリン、双方翠色の瞳から発せられる視線が、見えない火花を散らしている。


 先に目を逸らした方が負けて殺される、そんな真剣での切り合いのような緊迫であったが、ふっと気付いたパスクアが、素早く間合いから退いた。



「いや、そんな気を遣わなくって良いんだよ!」



 強張った頬を無理やり動かして、笑ってみせる。



「二度助けた分、こうやってがんがん働いてもらってるからさあ!!」



 そうだ、自分はこの娘とその取り巻きを二度救っている。隠し部屋から出てエノ謀殺に失敗した時、そして城門の前で。


 律儀そうな娘だから、たぶんその辺を思い詰めて、自身を差し出すしかないとでも考えたのだろう。


 場合によっては有難く頂戴してもいいのかもしれない、でもこいつはだめだと思う。


 見るからに経験のない生娘だ、いやそれ以前に敗者敵側の女だ、あとが怖い。怖すぎる。


 しかしエリンはきょとんとした。


 夜着の、とんでもない細さの肩ひもが片方、つっと動いた。



「……そう言えば、そうだった。そのせつは、本当にどうもありがとうございました」



 手を胸の前にして、娘は殊勝にちょっと頭を下げる。



「どういたしまして」



 ああ良かった、と安堵しかけたパスクアの耳に「でも」と再び挑戦的な声がかぶさる。



「これはまた別の話。わたしは、あなたがいいのッ」



 最後の方で、エリンはとうとう机の前方に身をのり出した。



「だから……!」



 目のやり場に困る亜麻布地のうすい夜着と“美しい”鎖骨とに迫られて、男は女と対峙する。


 夜着は左右一対の肩紐で、危うい均衡をどうにか保っている。


 装飾的技巧をこらして編まれた、その繊細なてがらを肩からすべり落としてしまえば、敵でも姫でも何でもない、ただの女が残るだけだ。


 パスクアは目を閉じた。



「いいかげんに、しとけ」



 できるだけ、乾いた調子で言ってみる。



売女ばいたの真似する小娘なんて、全然そそんないよ。……それにしてもお姫さんてのは」



 立ち上がる、開けるつもりで扉の方を見る。



「もっとこう、慎み深い人間だと思ってたがな」


「わたしも」



 こちらも低い声だ。



「野蛮人の男と言うのは、女と見ればすぐに乗りたがるけだものと聞いていたけど。あなたはその中にも入らないようね」



 かなしい怒気のこもったような、囁きだった。



「意気地なし」



 そこでパスクアはようやく理解した。こいつは喧嘩を売りに来たのだ、と。


 彼の闘争本能が――欲情ではない――売られた喧嘩は買って叩いてぶっ潰せという、ここ数年来息をひそめていたあの激情が、ほとばしって全身を支配する。


 振り返り、女の片手を掴んで足を払う。


 浮かんだ腰を抱えて座り込んで、一瞬のうちにエリンを押し倒した。


 毛皮敷の上ですらない、石床の上に。



「……後悔して、泣くんじゃねえぞ」



 これは果し合いなのだ。


 女と男の間で、こういう闘いがあるとは皆目知らなかったが、とにかくなめられては生きていけない世である。


 エノ幹部として箔をつけるほんの少し前までそうだったように、今パスクアは目の前の“相手”を屈服させる事だけに集中する。



「イリーの、あばずれが」



 “相手”は怯んだ様子もなく、真下から男を見据えた。



「泣かしてみなさいよ、野蛮人」








 結果は惨敗であった。


 パスクアが、ではない。


 女も男も双方が、喧嘩両成敗で惨々たる敗北を喫したようだった。


 売られた喧嘩を返り討ちにする気満々だったはずが、抵抗なしに耐えに耐えられるとは思わなかった。


 終始横を向いて顔をそむけているエリンを見て、彼は続けられなくなった。


 やめてしまって続きの間に入る、溜め置いた水の中に顔を突っ込んでから、悪態をつきまくった。


 そこから出ると、姫はもう起き上がって、例の紐を左右同時に肩にかけている。



「とっとと帰れ」


「言われなくても帰るところ」


「けど帰る前に、ひとつだけ答えて行け。何で俺なんだ」



 エリンは立ち上がって、肩掛けを拾う。



「あなた、今お母さんは?」


「餓鬼の頃に死んじまった。……やっぱ、それか」



 へっ、と息を吐く。


 エリンは肩掛けを広げた。



「俺が半分テルポシエって知って、目を付けたんだろう?」



 エリンの後ろ姿は、何も答えない。



「シャノンたち以外に騎士も貴族も残っていないし、なりふり構ってらんないってか」



 自分でも驚くくらい、辛辣な言い方になった。



「血が同じなら、誰だっていいのか? つくづく因果な身分だな、イリー王族ってのは!」



 エリンが振り向いた、ばらばらに解けた長い白金髪のなかで、小さな顔が泣いていた。


 つっと近寄って来る。



()は翠で」



 ぽろっと滴が落ちた。



「髪は白金」



 ほとんど彼の懐に入る位置まで来て、エリンは濡れた双眸を上げる。



「お酒に弱くて金勘定にうるさくて。これで園芸好きなら、典型的テルポシエ人以外の何ものでもないんじゃない?」



 くしゃ、と一瞬だけ顔が歪んだ。


 そうしてから再び目を伏せる。



「わたしが憎むとしたら、あなたがエノ軍だっていうそこの部分だけ。でもやっぱり、あなたがいい」



 相変わらず意味がよくわからない、しかし初めて歪んだ顔を見せられて、パスクアは怒気を抜かれてしまっていた。


 俯いた肩に手をかけるべきなのか、躊躇していると、エリンはさっと身を翻して肩掛けを羽織ってしまった。



「お邪魔しました」



 さささっと扉の方へ走り寄ってしまう、



「あ、おい、待て」


「また来ます」



 ぱたん、と閉められた空虚の中に、男は一人取り残された。



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