68 恋と卵11:縹色の空
「さ、着いた。この辺なんだ」
テルポシエの東門から街道へ、細いせせらぎに沿って外れたところに小さな谷がある。
丸みを帯びた大きな岩がかたまっているところは、少し“石が原”に似ているけれど、ここには草が生い茂ってどこもかしこも萌黄色だ。
「まずは、たかやみ草がいっぱい要るんだけど……」
メインは背の籠を置くと、屈みこんでぶつんと何かを引き抜く。
「これ。黄色い花で、葉っぱの先が白っぽいやつ。根っこごと抜いてね」
「うん、わかった」
イオナもしゃがみ込んで、探し始める。ようやくやって来た春の陽が背にあたたかい。
「黄色い花……」
しばらく地面とにらめっこする。……なくない?
メインを見ると、右手に持った鎌で地面をざくざくやっている。
左手には、すでに黄色い花のたかやみ草が束になっている。葉っぱ付のかぶを手に、呼び込みをしている八百屋の兄さんみたいだ。
慌てて、イオナは地面に目を戻す。ようやく黄色い花を見つけた!
「根っこごと……」
イオナ基準でそうっと丁寧に引っ張ってみる、それはするするっと難なく持ち上がった。
きぁ――――!! ねずみか何か、小動物の鳴きつぶれる音が聞こえた。
ざざっ。
いつの間にかメインが背後から抱きかぶさっていた、……いや違う。
イオナの後ろから伸ばされた彼の両手は緑色にきらきら光って、彼女の手の上から抜き取った草を、握りしめるかっこうになっていた。
「……どうしたの?」
すぐ上にある、光る頬っぺたにイオナは聞いた。
「ははははは、何でもなーい」
恐ろしくぎこちなくメインは笑って、その草をつまみ上げ、外套の内側かくしに入れた。
「……たかやみ草は……、葉っぱの先が白いからね、気を付けて」
「あ、そっか」
再びイオナは下を向いて、探し始める。
少し後ろにさがって、メインはかくしの中から草を取り出した。
緑の文様が輝く掌の中で、それは身をよじらせた。
『うおらぁ小僧ォ、いきなり何さらすんじゃ。娘っこの魂、喰えるとこだったっちゅうに』
「ああー?」
凄んだメインの顔の左側からけもの犬ジェブが、右側から緑樹の女がぬうと草を睨みつける。
『……えらい、すんませーん』
草はしおたれた。
それを思いっきり遠くの方へ放り投げて、やれやれとメインは溜息をつく。
――こんなに花がいっぱいある中で、何をどうしたら擬態精霊を選んで引っこ抜けるの??
狙ってやっているとしか思えないが、もちろんそうではないのだ。
襟元から、ひょいとプーカが顔を出す。
『こらもー、確定ちゃうのん? 恋っこは、どうみても狙われるたちよ』
『精霊のかもだなす』
反対側の肩に、流星号にのったパグシーが現れる。
メインが渋い顔で右上を見上げると、緑樹の女がそっくりの渋面顔をして、その豊かな髪に触れてみせた。
「……」
これまでにも何度か、城外近郊へ一緒に出かけている。
そのたんびに、たちの悪い妖精、いわばちんぴら精霊がイオナにちょっかいを出そうとしてきた。
人間の不良なら彼女は難なくかわしてしまうが、全く見えていないらしい敵に付け込まれたら、いくらイオナでもたまらないだろう。
シエ湾の水棲馬との遭遇はたまたまだと思っていたが、ひょっとして悪性質の精霊を惹き付けやすい何かが、彼女にあるのだろうか。
大失敗だったフィンバールも、そう言えば最初からイオナを敵対視していた。泣きじゃくる幼い姿があまりに哀れで、分別のつかない赤子の魂に精霊としての生を与えてしまったのは、自身も幼かったメインの過ちではあるけど……。
ひとつだけ、思い当たる要素がある。どうもあの赫毛、炎のようなイオナの頭髪が、精霊たちの悪しき部分を刺激するらしい。
プーカやパグシーたち、精霊人生の長いものは、全く気にならない様子ではあるが。
『あんなんで、よくここまで生きてこれたよねえ』
『話さ出てくる、義姉ちゃんいう人が、なんか護ってたっぽいげんちも?』
それは、メインも何となく感じていた。
テルポシエ陥落前、本陣で暮らしていた時から彼女の身辺は観察していたし、義姉というその小柄な人が、常人と異なる事をうまく隠しているのもメインにはわかった。
ただその人がまとっていたのは、今まで見た事のない“色”だったから、何がどう異なるのかはわからない。自分と同質でないことは、確かだった。
……精霊たちは次々に姿を消し、メインも自分の文様を消して、薬草採りを再開する。
「ねえ、メイン」
籠がだいぶいっぱいになったあたりで、イオナがのんびり声をかけてきた。
「なに?」
陽もほんの少し傾いた、そろそろ引き揚げどきかもしれない。
「あれ、本当?」
イオナはまじめな目つきで、しゃがんだままメインをじっと見つめている。
「わたしのために、死なないって」
「本当だよ」
彼女はその言葉を、耳から目から鼻から口から、全身で飲み込んで大切に抱くかのように、メインにはみえた。
瞬時閉じて、再び開けた瞳が、メインだけを見て笑っている。
「守る、っても言わないでね」
炎のような血のような髪に陽があたって、まさに彼女の生命が輝き揺れている。
この瞬間、メインは迷いを断った。
「……いま、一度だけ言わせて。例外ちゅうの、例外で」
草むらに膝をつけたまま身を乗り出して、メインは左手を差し伸べた。
「手、出して」
「?」
反射的に差し出されたイオナの左手、メインはその手首をきゅっと掴むと、右手の小刀でぷすりと人差し指を突き刺した。ほんのちょっとだけ。
「ぬぁっっ、何すんのッッ? 血がっっ」
ぷっくり赤く膨れ上がる。
「ごめん、黙ってて……終わったらすぐにふさぐから」
言いつつメインも、自分の左手指先を刺した。
赤い滴の盛り上がるその指を、イオナの傷口にあわせる。
「なに……してるの?」
「俺の血を、少しイオナの血に混ぜ込むんだ」
イオナにはわけがわからない。
ふと気づけばメインの手に顔に、あの深緑の文様が浮き出て輝いているではないか。
「メイン……また……」
「大丈夫」
イオナの手首を右手で押さえ、くっつけた左手指先から目を離さずにメインは言った。
「……赫毛が不吉のしるしだっていう、嫌な言い伝えを聞いた事ある?」
「……」
もちろん、あった。
アランとヴィヒルと髪を売りに行っても、自分のだけは買い取ってもらえない。
どうしてと食い下がって、店の人にそう教えられた。
かつらにしても売れないから、と。
――大丈夫ようん。アラン特製のこのあみあみお守りが、不吉なんてぶっ飛ばして、イオナちゃんを守ってくれるわー。
三人で暮らし始めて間もない頃だった、アランはどこからか一対のお守り玉を持ってきて、それにてがらを付けてイオナの髪に編み込むようになった。
イオナの背丈がアランを追い越しても、アランが義姉になってからも、毎朝毎朝鼻歌を歌いながら、きっちりとした編み目をこしらえる。ヴィヒルもよくイオナの髪を結い上げたけど、脇髪の“お守り編み”は何が何でもアランがしていたのだ。
だから二人がいない今、イオナは自分の髪を下ろすか雑に束ねるかしかない。お守り二つは紐に通して、首にさげている。
「赫毛それ自体が不吉ってわけじゃ、決してない」
平らかな調子のメインの声が、イオナを現在に引き戻す。
「ただね、少しばかり目立つんだ。……妖精たちが、付け込みたがるんだよ」
メインの頭上で、枝のように髪を広げのばした緑樹の女がにっこり笑い、少し身を乗り出してイオナのつむじに優しく口づけた。
文様のはしる両手が、イオナの顔を包み込むようになでる。“祝福”が済んだ。
何となく良い匂いがしたような気がして、イオナはその辺を見回した。
「……何か、上……この近くに、……いる??」
それでメインも、緑樹の女も一瞬固まった。
『うあー、ここまで寄っで、見えねんだど! 相当なもんだない!?』
『かなりの近眼だわ、妖精ど近眼だわ! この恋っこ』
パグシー愛馬のいも虫流星号も、ちょっと動揺して白眼をむいている。
「――はい、おしまい!」
ふっと笑って、メインは手を離した。
「もう、精霊の悪意は及ばない。俺の血が、あなたを守るから」
――守る……。
自分がいったい何からどう守られたのか、イオナにはいまいち(どころかさっぱり)のみ込めなかった。
それより、離された手のぽっかり感が空しい。
「はい、では消毒消毒」
再びメインの手が、あのがさついて冷たくて妙に大きな手が、イオナの左手に触れて、瞬く間に傷口の治療にかかる。
――離したく、ないなあ。
いまはっきりと、イオナはメインが好きだった。
他の男性たちに混じれば、ひょろくて小さくてやんわりで消え入りそうな程に儚げだけれど、彼の手に触れるたび、そこに底知れない強さがあるのがわかる。
何がどうしてそう思えるのか、アランのようにはっきりすっきり言葉で説明することはできない。
けれど自分の中で叫ぶ自然に従って、イオナはメインを、メインの手を信じている。
「メインの指、わたしが巻こうか」
きれいに晒しの巻かれた自分の指から目を上げて、イオナは言う。
「あ、俺はいいよ。左だから右で巻けるし」
何気なく本人は言うが、実際のところは両手利きのメインである。
メインの手をつかみ損ねて、イオナの右手は胸の前でぱくぱくする。傭兵でも、どうでも良い事を恥ずかしく思う事はあったりするのだ。
ふと彼女の脳裏に、アランの、そしてヴィヒルのことばが思い出された。
――……あなたがね、どんな方向を選んだとしても。 あたしとヴィーは、イオナちゃんの味方だからさ。
兄とアランと、こんなに長く離れていた事はなかった。
心配はしていないけれど、やっぱり会いたい。
会って自分の気持ちを全部話して、それを大丈夫だと認めてもらいたかった。
けれど二人は今、自分の側にいない。
自分ひとりで決めなければいけないのだ。
――だから、自分のこころには、正直でいるんだよ。……
メインは歯をむいてそこに細い晒しを挟んだまま、左手の指の間で軟膏をこねこねしている。
――どうしたい? わたしは、どうしたい? 今するべきなのは、……違う。そうじゃなくて……
「わたしは、メインがほしい」
彼が顔を上げた拍子に、晒しがはらりと歯のあいだからすり落ちた。
びっくりして少し開いたままの口、そこを自分の唇でふさいでみる。
やっぱりメインからは、いい匂いがした。
だからそこに少しずつ雄の匂いが混じり出しても大丈夫、それは変わらずにメインの匂いだから。
不意を突かれ、空気の足りなくなってきたメインの震えに気付いて、噴き出しながら顔を離す。
「わたし、テルポシエにいるよ」
彼の右手を、左手を探して掴んだ。
かさついて冷たい手、海からイオナを引き上げてくれた手。
「メインと。ずっと」
真っ赤に紅潮した顔で、メインがイオナを見つめた。
かさついて冷たい大きな手が、イオナの手を力強く握り返す。
あんまり嬉しくて、メインはイオナの頭を抱きしめた。
思わず膝立ちになったそこへ、妙な力がゆらりと加わって、次の瞬間メインは宙を一回転してから反対側へ大きく仰向けになる。
ふんわり投げられたから全然痛くなんかない、吹き出した春の花々の広大な褥が、彼を柔らかく受け止めていた。
視界いっぱいに満ちる縹色の明るい空、幸せの色と自分との間にイオナが挟まって、ふふふとメインを見下ろしている。
上空の方でちらちらと光るものが見えた、パグシーが結界を張ったらしい。




