67 恋と卵10:“みつ蜂”
まったりと麗らかな正午過ぎ。
大中の籠を両手に提げて、仲よし二人は北区の大路を歩いている。
籠は空っぽだから、歩みと一緒にぶんぶん揺れて、いかにもたのしげだ。
けさ降って止んだ雨のあとなんかへっちゃら、女性用の袋股引の足元をくるくるきっちり脚絆でかためて、少女の足取りは軽い。
すぐ横の少年の頭には、時々のぞく春の陽があたたかく照りかえす。
時折空気にまじる香りは、一体何の花だろう。
「いや、もう何と言っても便所だよ! 本当びびった! イリーのこの辺まで来てさ、色々びっくりする事たくさんあったけど。あれほど驚いたのはなかったね」
「じゃ、穀倉地帯にはお手洗いがないって噂、本当だったのね!」
「うーん……そりゃ、金持ちの家とか、でかい商家なんかにはあるのかもしれない。けど、うちの田舎にはなかったよ」
セイン少年も、クレアも大まじめである。
「あ、一応ね、雨の日とかのために、家の近くに囲いと屋根付きの穴は掘ってあるんだ。でも皆めったに使わない」
「雨が降らないんだっけ?」
「たまに降るよ、本当にたま――に。でも、ここみたいに始終しとしと……なんてありえない」
「へえー」
「だからふつうは、その辺の野っ原で」
「この辺でそれしちゃ絶対だめなのよ。すごく怒られるのよ」
「俺はエノ軍本陣で、ちゃんと便所つかうよう教わったよ。実際に陣営の引っ越しで、便所穴堀りまくったしさあ。でも時々、緑地とかでしちゃってるおっさん傭兵いるよね。テルポシエのおばさんに叱られて、だっせぇの」
「そうそう、だっせぇのよ。汚いのもあるけどね、ご不浄のものは肥やしとしてとても価値があるの。だから専門の業者さんが城外壁に集めて、そこで数年発酵させてから、近くの農家さんにあげるのよ」
「おまる管理にうるさいのは、その辺の理由なんだな。うちの実家の方じゃ、肥やしなんてほとんど使わないし」
「テルポシエもそうなんだけど、イリー都市国家群のあるこの沿岸地域は、本当に地味がやせているから、必須なのよ」
話題が話題であるが、ともかく二人のあいだには親しげな会話がぽんぽん弾む。
穀倉地帯の辺境なまりが強い潮野方言と、ちゃきちゃきした下町調の正イリー語。異言語なのに通じている。どっちもお互いを聞く気満々でいるから、異なる抑揚なんて壁にならないのだ。まあ、のれんくらいの障りである。
エリン親衛隊のひとりとして、陥落後しばらくテルポシエ城内に留め置かれていたクレアだったが、傭兵のイオナが上に進言してくれたおかげで、その後すぐに北区の家に帰宅できた。
なりゆきで送ってくれた優しい予備役のセイン少年とは、以来友だちである。
友だちと言えば親衛隊も姫様も、クレアにとっては“友だち”になっていた。
だからこれっきりになってしまうのは何となく嫌で、クレアは数日おきに城へ向かう。
ほとんど毎日、出勤まえにセインが朝ごはんを食べに寄るから、彼にくっついていけば危ない事なんて何もなかった。父も安心している。
今日も午前中を城で過ごした。
たいてい厨房でリフィとケリーに会い、もろもろの事を手伝う。
昼の料理長はもう慣れっこで、時々食材の発注もしてくれるようになったから、父はますます機嫌が良い。
「ただいま」
扉を押しあけて、クレアは勘定長台の後ろにいる父に呼びかけた。
「お帰り」
クレアの家は酒商である。
“みつ蜂”とかわいい屋号で、小さな構えだがこの辺では繁盛している方だ。
量り売りの他にその場で飲ませもする、加えて食わせもするので客層が厚い。
「二人とも、めしは済んだのかい」
「ええ、いただいてきたわ」
「ほんじゃクレア、セインに何か淹れてやんな。……牛乳の方がいいか?」
「はい」
少年が嬉しそうに笑う。
「おとうさん、これ。また注文ですって」
素早く前掛けをつけながら、娘は父に布切れを差し出す。
「毎度、ありがたいこった」
「俺、また持ってくの手伝うよ」
「お前もありがたい奴だなあ」
「セインちゃん、はい牛乳」
「ちゃんと蜂蜜入れてやったか?」
「もちろん」
「セイン、昼休み?」
ふわりと後ろから声がかけられる。
おやっと思って振り向けば、勘定長台のすぐ横で、背高い赫毛女性が微笑んでいる。
「お姉さん!」
「イオナ!」
セインとクレアは同時に歓声を上げた。
「知り合いかい」
「ああ、おとうさん! このひとがイオナさん、あたしを帰すよう上司さんに頼んでくれたの」
「えええ?! そりゃ大変だ、うちの娘が本当に世話になりまして」
もう昼の食事客はほとんど終わって、店の隅に家族客がひと組、香湯をすする婆さん爺さんがいるだけである。
まばらになった席の一画で牛乳を飲んでいる女客の事は把握していたが、娘の恩人とは露とも思わなかった父であった。
「ここのお店の子だったんだね、クレア」
「イオナがお客に来てくれるなんて」
仕事に戻るセインを見送ってから、二人は勘定長台の前に座った。
親父は台の向こう、杯を拭きふき目尻を下げている。感じの良い美人が店にいるのは、たいへんよろしい風景だ。
もらったお代わりの牛乳を飲みながら、イオナはクレアをじっと見た。
「……でも、あんまり来ない方がいいのかな?」
「え、なんで」
イオナはちろりと店内を見る。
「ほら、わたし達は一応……あんたのお姫様の敵なわけだし。そういうわたしと喋ったりしてたら、お姫様や市民の人達に、怒られない?」
「ぜんぜん全然ぜんぜん」
ぶんぶんぶん、とクレアは頭を横に振る。
「そういうの、言われた事ないわ。それに女の人で傭兵さんなんて、珍しいもの。町の人にはわからないわよ」
実際、親父もわからなかったのだ。がっしりしているから女性の行商人、あるいは職人かとあたりをつけていた。革鎧を着れば、また印象は変わるのかもしれないけれど。
「あのね……」
ちょっとためらってから、クレアは言う。
「姫様の身代わりしてた時、お城の騎士の人達に、いつ死んでもおかしくないから覚悟をしておけって言われてたの。毎日毎日、怖くてすごく嫌だったから……、だからあの白金髪の上司さんに助けられた時、正直ほっとしちゃったの」
白金髪の上司さん……エリン姫たちが前王を襲った際に、パスクアがどうにか彼女らの助命にこぎつけた事か、と見当をつける。イオナ自身はその場にいなかった。
「あたしはこの町が好きだし、姫様やシャノンさん達も好きよ。ウルリヒ王様が死んじゃったのも、すごく悲しかった。それでエノ軍の占領が始まったら、町もお店も壊されちゃうって心配していたんだけど」
両手を組み合わせて、親指どうしの端をすり合わせる、そこに目線をとめて、少女はこれまで過ごして来た不安な日々を思い返しているらしい。
「……けど、帰って来たらおとうさんもお店も無事だった」
親父の太い腕が伸びて来て、長台越しに娘の金髪頭をなでた。ずっ、と洟をすする音。熊のような男が、節くれだった指で目尻をこすっている。イオナはちょっとだけ、クレアをうらやましいと思う。心の底で。
「実際に、あたしたち平市民の生活はたいして変わらなかったのよね。エノ軍の中には、確かにすごくいじわるな人達もいるわ。でも、イオナやセインちゃんは、騎士の人達が話していたような“野蛮人”なんかじゃないと思うの」
明るい翠の瞳を上げて、クレアははっきりと言い切った。
「だからイオナ、いつでも何でも飲みに来て。あたしはあなたがいいから、うちは大歓迎。ね、おとうさん?」
「そうそう」
親父はうんうんとうなづく。
「何たって、あんたはうちの宝物を戻してくれたんだ。俺もあんたがいい。ぜひ、来てくださいや」
父娘の話すイリー語には、少し不明瞭というか、イオナにいまいち意味のつかめない部分があるのだけれど、それでも彼らが自分に好意を持ってくれているのはよくわかる。
「……ありがとう」
三人にこにこする中で、ふっと思いついたように親父が言った。
「けどねえ? 実際いまの王様になってから、乱暴な客が少なくなった気が」
「?」
「陥落のすぐ後はね、うちもその……供出はしたし、荒くれた感じの傭兵がずいぶん飲んだくれて、困った事もあったんだけど」
「あたしが帰る前ね」
元々親父は、一人娘の将来を考えて堅い商いを目指していた。
飲んべえ向けの強い酒は量り売りだけ、食事めあてに来てくれる家族客に入りやすい雰囲気をつくり、夜もだいぶん早くに閉めてしまうのだ。
騒ぎを起こしに来る奴を、常連客が締め出してくれるような、そんな店である。だから酒商としては珍しく、朝の食事も出していた。
かたん、と扉がひらく。
老夫婦と入れ違いに、線の細い若い男が入って来る。
「ごめん、待たせちゃって……」
どこぞから走って来たのだろう、息せき切ってひょろひょろした肩が上下に揺れている。
まっすぐイオナに向かって歩み寄るその人に、親父もクレアも見覚えがある。
「……いらっしゃいませ」
お目見えの晩、壇上にいたひとだ。
親父は巨漢だし、クレアはその父にちょっと抱えられて(恥ずかしかった)見たのだから、よく見えた。
「福ある日を。すいません、この人と待ち合わせしてて」
「やっと来た。ずいぶん時間かかったね」
イオナは立ち上がって、くるっと巻き外套を羽織る。
「うっかり、パスクアの手伝いさせられててさあ……」
当人の名誉のために言うと、実際にはパスクアこそがメインの書簡作成を手伝っていたのだが、その辺はあまり気にしないメインである。
「髪、どうしたの?」
「走ってたら、いつのまにかばらけちゃったんだ」
「お使いになりますか?」
前掛けのかくしから麻紐を取り出してみせたクレアに、メインは屈託なく笑った。
「ありがとう、クレアちゃん」
受け取った紐をくわえて、くるくる両手で黒髪を束ねている、うしろに大きな籠を背負っているらしい。
「おじさん、ごちそうさまでした。じゃあまたね、クレア」
笑顔で出てゆく二人を見送り、父娘は顔を見合わせた。
いつの間にか、店は空っぽになっている。沈黙がおりた。
「今のは王様だよなあ。新しい……」
「でもって、イオナと手つないでたわ?」
「何でお前の名前知ってるんだ」
「……何でかしら」
「……うち、御用達になるのかな」
疑問ばかりで二人とも答えが出せない。
しかし海千山千の酒商おやじたる父は、きりっとした顔でまとめた。
「いい顔の二人だったな。あれは永くなる。俺にもああいう時代があった、お前の母ちゃんというひとはだな……」
親父の思い出話も長くなりそうであるが、クレアの耳には届いていない。
……何か、得体の知れない何かが引っかかって、彼女の心をざわつかせている。
――今みたいに髪を下ろした王様を、前に見た事がある。お目見えじゃない、エノ軍が来てからじゃない、もっと前……いつどこで、どうやって⁇
どうしても思い出せないのが、もどかしい。
「……じつにかわいい娘でよう」
「おとうさん。あたし、ちょっと出てくるね」
続く話に割り込んで言った。
「どこへ」
「四丁目の“紅てがら”さん。シャノンさんからお使いがあって」
「ほー? あんな庶民派の店に?」
まあ、あそこは品揃えがいいからな、うちもよく使ってるし……親父は思い直す。
「近いとこだし、日の高いうちにちゃっちゃと行ってきな」




