66 恋と卵9:オーランの黒い塔
「お父様の事は、本当にご愁傷様でした」
真心のこもった低い声で、年輩の紳士は静かに言う。
「何度かお会いしましたが、お祖父さま同様、素晴らしい方でした。心からお悔やみを申し上げます」
「ありがとう存じます」
やはり低い声で静かに応じ、男は少しだけ面を上げる。
小さな公国の小さな宮城内、こぢんまりした室にて、黒木の机を間に、紳士と若い男が向かい合っている。
執事らしき年輩の騎士が盆を手に進み出て、やんわりと湯気のたつ杯を紳士と、男の前に置いた。
「今回の戦は、イリー諸国の全く予期していない事でした。誰もが、テルポシエの圧勝を信じて疑いませんでしたのに」
紳士は、きれいに揃えられた白髭を震わす。
「それは、私どもも同じでした。各宗家の皆様は、蛮賊の力を侮っていたのかもしれませんが、それにしては代償が大きすぎました」
男は杯の温かみを閉じ込めようとするかのように、それを両手でくるんで持つ。
「……あなたも、身代でようよう逃げ出されたと」
「はい。老齢の母がおりますゆえ、なかなか思うように道行きができず、本日ようやくこちらオーランまでたどり着く事ができました」
男の蒼い双眸をやさしく見てから、紳士は後ろの執事に顔を向けて頷いた。
「本当に、よういらっしゃいました。私どもが手配しますので、しばらくはどうぞこのオーランで休養なすって下さい。アリエ侯」
「いたみいります、ルニエ公」
男は深々と頭を垂れる。
金髪とも赫毛ともつかない奇妙な色の縮れ毛が、豊かに揺れた。
「そうして、是非ともテルポシエの皆様のその後の安否や、敵軍の情報などご教授ください。……お名前は、お祖父さま、お父様と同じでよろしかったのですね」
「ええ。祖父と、父と同じく、ミルドレ・ナ・アリエと申します」
・ ・ ・ ・ ・
海に向かってせり出す断崖、そこに沿って続く小径は、ずんぐりした黒石積みの塔で終わっている。
オーラン宮から市内へ戻るはずが、ミルドレは何となく人目のない場所を探して、こんな所まで来てしまった。
じきに、足元の覚束なくなる時刻だというのに。
『霧が出て来たわ』
「そうですね」
するり、女の手がミルドレの腕にからまる。
『わたし、あなたのお母さんじゃないわよ』
その女は、上目遣いでミルドレを睨んだ。
『老齢の母、だなんて。ひどい』
「ふふ、ごめんなさい。ただの言葉のあやだったんです、ああいう風に言えば皆さん気を遣って下さるし」
『ふーん……』
女は頬をふくらました。
「あれ……なんだ、人がいるのかな」
ほんの十数歩のところへ迫っていた、塔の窓に灯りがともったのが見えた。
『あそこへ行きたかったの?』
「ええ、眺めが良さそうだから」
『はやく言えばいいのに』
ばさり、と重い羽ばたきが男の耳だけに聞こえて、ミルドレは巨大な翼にくるまれた。
一瞬の後には、海原を視界いっぱいに見渡せる、黒い塔のてっぺんに立っている。
「わあ」
頬がほころんだ。
「きれいですねえ、シエ湾!!」
『荒れ荒れの、まっくろぐろよー?』
ミルドレの肩にあごをのせて、女は言う。
両腕は背中からミルドレの胸を抱いていた、塔のふちで彼が揺らがないように支え守っているつもりなのだ。
「黒は大好きな色です」
騎士はのほほんと言う。
ゆっくりと顔を回して、ミルドレは女を見た。
その蒼い双眸の中に、自分の姿が映り込んでいるのを見て、女は自分の恋が再びあたらしくなるのを感じる。
いくら慕っても慕いきれない、あふれる程のいとおしさ。
「やさしい薄明の中の薄闇、そのいちばん濃く昏い核。あなたの色ですから」
女は顔を、騎士の草色外套の肩に埋める。
そのまま女とミルドレは、うねる海を前に長いこと寄り添っていた。
やがて女が、ぽつりと言う。
『霧の水気がまとわりついてきた……。あなたを冷やしたくないから、町へ帰りましょう。ルニエ公が、あたたかいお宿を用意してくれたのよ』
「せっかく来たのだし、もうちょっとだけ、ね」
『風邪ひいて、のどを傷めたら一大事よ?』
「……ここ、似てるじゃないですか。透かし堂からの眺めに」
そう言われて優しい視線を注がれれば、女はもう何も言えなくなる。
鼻歌がふわりと漂ってきて、それで女は男の左腕をひょいとくぐる。
柵壁のふちに腰かけた、かれの左膝にのっかった。
そうしてかの女はその翼を大きくひろげ、騎士の体を包み込む。
何とかしてミルドレを、霧の湿気から守りたくて。




