61 恋と卵4:髪を拭く
まっしろ中身の頭のまま、エリンは歩き続けた。
「入んな」
そこではっと見上げたエリンの目に、見慣れた扉が映る。いつのまに城内に入っていたのか。
――嘘でしょ……。
エリンがためらっているうちに、パスクアはケリーを抱いてどんどん部屋の中へ入ってしまった。
まごついて、あいた扉の内側数歩のところに突っ立っていると、後ろから声がかかる。
「パスクアさん、お疲れっすー」
予備役らしい若いのが、湯気のたつ鍋を二つ提げて来た。
「ありがとう、水はあるからもういいよ」
「うっすー」
さっさと引き下がる予備役。扉は開かれたままだった。
「おい。ぼーっとしてないで、灯りつけてくれよ」
「あ、はい」
廊下の燭台から室内のへと、エリンは見つかるだけ火を移す。
嫌な記憶のある部屋は、調度品がさっぱりなくなっていて、がらんどうだ。代わりに男のにおいが漂っていて、知らないうちのようだった。
続きになった手洗い場で、パスクアはケリーを腰掛に座らせて、背中をさすっていた。
「泣くなよ、もう」
「……ごめんなさい」
ざざ、と荒い手つきで男は毛織上衣を脱ぎ、その辺に放る。
手燭の灯りに照らされたそれは、泥で汚れに汚れている。……赤黒い染みもたくさんあった。
革鎧姿になった所で手を洗うと、驚いた事にさっきの湯にくぐらせた手巾でもって、男はケリーの顔を拭くのである。
「ごめんなさい」
あかく湿った顔で、もう一度ケリーがしょんぼりと言う。
「ごめんなさいは、お前じゃないだろ」
しゃがみ込んだまま、パスクアはエリンをじろりと見上げた。
「何であんな所にいた」
「宴の準備で、言いつかった事を確認していました」
「ものすごく厄介な事になる寸前だったよな?」
「わたしの注意不足です。――ごめんなさい」
「以降、気をつけるように」
「以降、気をつけます」
ほんの少しの沈黙のあと、伏せた視線をちょっと上げると、立ち上がったパスクアは自分を見下ろしたまま、手巾で自分の顔を拭いている。ケリーを拭いたやつ。
「拭くの、持ってるか」
「持ってます」
もう声に怒気はなくて、エリンはちょっと気がぬけたようになる。
結局、拭いたくらいでは腐れ卵の壮絶な臭いは落ちなくて、流し台でケリーに上から水をかけてもらう。
本当は三つ編みを全部ほどいてざぶざぶやりたい所だけど、パスクアの前で洗い髪をさらすなんて絶対に出来なかった。
濡れた所を手巾でごしごしやっているエリンの脇で、パスクアが爪の中の泥を、髪針みたいなもので掻きだしている。
「つかもー、湿地帯の延長みたいな所でよー。帰り際にはまって、まーしんどかったわ」
「ほっぺたに、まだ泥が残ってるよ?」
「うげえ、拭いてくれ」
目の前にある鏡を見るという考えはないのだろうか。さっきの腰掛に座って、ケリーにぐりぐり拭かせている。
「この黒いしるし、取れないよ」
ケリーはあっけなく、“上司”との距離を取っ払ってしまったらしい。
「あ、それはいいんだよ。幸運のしるしだから、わざと取れにくい顔料使ってんだ」
「そうなの? じゃあ、三つ編みの泥落とすね、……うわあ⁇」
「何だよ」
「ぬるぬるしてるッ」
「くっくっく、そうだろう掴めないだろう? 戦闘の際に敵に掴まれないようにな、俺は扁桃油をすりつけておくのだ」
「気持ちわるうううい」
言いつつケリーは、編み目から乾いた泥をつまみ出している。
「……どうだったの?」
エリンはぽそりと、問うてみた。
「こんどの戦いは」
ちらりとエリンに目を走らせてから、パスクアは少し笑った。
「やなもんだね。長く知った奴と、争うというのは」
それで口をつぐんでしまったから、この話はやめておこうと思う。
代わりに、気になっていた事を聞いてみる。
「……さきの大戦でも、あなたは戦線に出たの?」
「出たよ」
爪をほじくる手を休めずに、パスクアは言った。
「真正面でなしに、脇の方での面倒ごとを始末しに。長く信頼してた部下をなくした」
「……今日みたいな軽装備じゃ、あの時分の湿地帯は寒くて湿って、やりきれなかったでしょう」
「だな。けど俺は、湿地帯で戦った後、負傷者を連れて本陣へ戻っていたから」
エリンはぎくりとした。すこし切れ長の瞳がいま、じっと自分を見据えている。
「だから、あんたの兄ちゃんの死に様は知らん」
そこには嘘もたくらみも、何もなかった。
憐れみもない。
静まった深夜の湖の水面のような、真実だけ。
「――そうなの」
エリンの瞳が、その中にたゆたう。
「全部、取れたよ!」
ケリーが嬉しそうに言った。
「よーし。ほんじゃ、そろそろ行くか」
朗らかな調子で言うと、パスクアは立ち上がった。
「お前ら、晩めしはもちろんこれからだろ。お供しな」
「うたげってやつ!?」
「そう、いつも以上に食っていいの。でもお前は酒飲んじゃだめ」
「パスクアさんは飲んじゃうの!?」
「……俺もだめ。全ッ然飲めないから、果汁で付き合え」
「きゃっほう」
ごく自然に、ケリーがパスクアの袖を握っているのを見て、エリンの口元がちょっと緩んだ。
ぬうんと大きい男の背中の真ん中あたり、白金編み髪の先っちょが、仔犬の尻尾のようにくるりと丸まっている。
・ ・ ・ ・ ・
「どうです、シャノンさん! 鍋の具合は!」
「あっ、大丈夫ですよ、料理長。もう一刻ばかり見張ってますけど、何も不審な様子は見られません!」
昼の料理長が慌てて蓋を取ると、すっかり汁の蒸発した中身が、じりじりと乾いた音を立てていた。
「ぎぃやぁああああ」
「おお、素揚げですね! これはまた、美味しそうな」
「煮込みですうううう」