60 恋と卵3:腐った卵
二日のちの夕方。
エリンと親衛隊の三人は、中庭とそこに続く廻廊にいた。
ここでエノ王及び幹部アキルの葬儀を行うそうで、昼と晩の両料理長があれこれ指揮を飛ばす中、大量の杯やら皿やらを持って、厨房から行き来する。
ものすごく重い酒瓶を両手に提げて、エリンは隣のリフィに話しかける。
「こんなにたくさんのお酒、本当に全部なくなるものなのかしら?」
「それを言ったら、あんな幾つもの鍋いっぱいの食べ物も……ですよね」
答えるリフィは、両手に二本ずつの瓶を軽々と持ち歩いている。
葬儀と言われて、エリンはイリー式にしめやかな儀式を思い浮かべたのだが、そうではなしにとにかくどんちゃん騒ぎの飲み食いを行うのだと知って、驚いた。エノ軍の傭兵達は、死者は賑やかに送り出すものとしているらしい。
そして、あの憎々しい仇敵エノがあっけなく転落死していたことも、いまだに信じられなかった。次の首領は決まっているというから、エリンが滅すべき相手がいなくなったということではない。それでもあの男が、兄を殺したあのエノが、そう簡単に死ぬはずはない、という気がする。
何かのからくり……それこそ替え玉でも何でも使って、皆を罠にはめようとしているのではないか。……エリンは不気味さを感じていた。
「いやー、困っちゃって」
それでも目の前には幾つもの細かい仕事、やるべき瑣事が並んでいる。
リフィと厨房に戻ってみると、昼の料理長に手招きされた。
「注文しといた林檎蒸留酒が、まだ届いてないのよ」
「まだ、要るのッッ?」
リフィが目をまん丸くむいた。
「要るんだよー、うちは。テルポシエの人は弱いから、あんまし飲まないんだよね?」
「ええ……」
「悪いんだけど、ちょっと城門の辺りまで行って、見て来てくれる?うちの賄い婆さんたちはイリー語おぼつかないし。ひょっとして、配達の人が検問でまごついてるのかもしれないから。トカレっていう酒商なんだけど」
「あ、じゃあわたしとケリーで見てきます」
リフィが引き受けたところで、横から晩の料理長が口を挟んで来た。
「おい、おかっぱには豆の煮込みを見といて欲しいんだよ」
「じゃ、わたしが行くわ」
エリンはくるっと明るく言った。
「え、でも」
さっと不安を瞳に映したリフィに、エリンは笑顔ですましてみせる。
「大丈夫よ、ケリーと一緒だもの。ささっと行って来るわ、この位のお使い」
実の所、エリンは城の外が見てみたかった。
包囲戦の始まる前は、よく侍女達と出歩いていた。市民達は彼女を見ると手を振ってくれたし、エリンもお忍びで編み物材料を買い集めるのが楽しみだった。
戦争が始まってからも数日に一度は鍛錬場に行ったり、内外市壁の間で行われる騎士見習の乗馬訓練に入れてもらったりしていた。
けれどあの日、本当の衝突が始まって、あっという間に終わってからというもの、エリンは市中の様子を全く目にすることが出来なかった。
城に入って来る業者などは、エルリングを通して以前と同じ人たちを用いるよう勧めたけれど、元々そういう民間人とは関りがなかったから、話をする機会もない。
まあ、お互い知らないのは市中の人々も同じなのだけれど、やはりエリンは“自分の民”が気になっていた。
「姫さま、外套裏返した方が良くない?」
検問の灯りがともる城の西門、城と市中との境界に近づいた時にケリーが言った。
「……そうね」
エリンは答えて、着ていた外套を脱ぎ、褐色の裏地をおもてに羽織る。
騎士の称号を持っていなくても、王族のエリンには幼少時から一級騎士の草色外套を着ることが許されていた。
城内ではもうエノの者ばかり、誰も何も気にしないから問題ないのだが、市中で貴族特権の色をまとうのはさすがに目立ってまずかろう。
頭巾もすっぽりかぶって見せると、ケリーが頷く。
この子が着ているのは準騎士用の深緑外套である。まだ騎士見習にもなっていないケリーは、リフィのお下がりであるその外套を、常に裏返している。
「姫さまとお揃いだ!」
女児はちょっと嬉しそうだ。裏地はどちらも、褐色なのだから。
「そうね」
笑って、エリンは思う。ケリーもいつかは、草色を着るのだろうと。
検問の衛兵役に聞いてみると、やはり酒商の荷車は来ていない。
「でも……」
エリンは門からのびる大路の先を見やった。
薄闇が落ちてはいるが、まだ明るさは残る。
「トカレのお店は、ここ行った先のすぐなのよね」
大きな店だから、前を歩いただけでも名前は知っている。
「だめだよ姫さま、シャノンさんが……」
うかつに城内外を歩いてはいけない、といつも言っているのだ。
「ほんのちょっとだもの。大丈夫じゃない?」
エリンはすいっと駆け出した、ためらいながらケリーが後をついてくる。
やっぱり先方では勘違いをしていた。
「あれま、明日とばかり思ってまして」
平あやまりに謝って、少し目の悪いらしい老店主は、おっつけすぐに店の者に届けさせると言った。目の前の娘が王女とは、つゆとも気付かない様子である。
イリー諸国における酒商と言うのは、つまり酒場でもあって、その場で呑ませると同時に量り売りもやっていた。まだ宵の口だから呑み客はまばらだったが、何となくがさついた視線が自分に注がれているのを感じて、エリンはそそくさとケリーの手を取る。
「おじいさん、完全に間違えてたんだね。来てみてよかったね」
「本当よね、でなかったら明日、料理長にどやされてたわ」
――にしても酒商なんて入ったのはじめて。ああいう所なのね。
ほんの短い距離だったけど、ここまでの所でエリンの目には戦の影響というものは見えなかった。
街並みの家々は荒らされた様子もなく、ごみが散らばるわけでもない。
隠れ部屋の中で想像した風景、糞尿が垂れ流しになっていたり、そこここに死体が片付けられないままという凄惨な風景とは異なって、全く静かだった。
少なくともここの人達は大丈夫だったのだ、ふっと安堵したその時。
ぷしゃん、
何かが自分の頭にあたって破裂した。
「きゃッ」
意表をつかれて、思わずエリンは立ちすくむ。
どろりと冷たい感触が流れた。
――なに……? 矢? 投擲??
さっと身構える、そこにもう一度ぱしゃんと額にぶつけられる。
すさまじい悪臭がして、腐った卵を投げられたのだと知る。
「恥さらしの売女!」
しわがれた声、肥った中年女が家の戸の前でわめいている。
「お前ら、王族貴族がばかな戦をしたから、うちの息子は死んじまった!」
「あたしの弟は、湿地帯で殺されたんだあ!」
今度は路の反対側から、年増の女が金切り声を上げる。
「あの寒い中、お前らの代わりに戦線を守って、凍えてたんだあ! お前ら貴族が、代わりに死ねば良かったんだ……、うわぁぁぁん」
獣じみた慟哭に、エリンは戦慄した。
ケリーがぐいぐい背を押して、それではっとしたように駆け出す。
エリンは彼女らを知らない。けれど彼女達は、エリンを知っている。
ああしまった、酒場から出た後、頭巾をかぶるのを忘れていたのだ。
「知っているぞ! 色香を使って、エノの中にまぎれ込んだろ!」
「蛮人相手に股をひらいて、それで生き延びるつもりか!」
「ぼんくら兄貴と一緒に死ねば良かったんだ、国売りの売女!」
いつの間にか、方々から群衆が寄り出していた。
全力で駆けて門まであと三十歩、その位の所で、大路の真ん中に人の輪ができてしまった。
エリンとケリーは、その中心に閉じ込められる。
向こう側には城門の衛兵らがいるはずだが、エリンからは見えなかった。助けに来るだろうか?
――何てことだろう、この人たちはわたしの側の民だったのに。いまや、エノ傭兵に助けを求めるなんて!!
心の底にへばりついたこの懊悩のために、エリンはとうとう助けを呼べなかった。
エリンのすぐ側で、ケリーが身震いしている。
二人とも武装していなかった、短槍は“上司どの”に没収されたままだった。槍をもてば神童でも、持たなければケリーはただの子どもでしかない。
薄明の中、憎悪を湛えた人々の眼がしろく光って、エリンを追い囲む。
エリンはケリーを胸に抱き込んで、そして息を吸った。
「わたしは、国を売ってなどいません!」
雷鳴のような気合に、群衆はふと静かになった。
「わたしはあなた方と、生きてここに居ます!」
他に何が言えるだろう。エリンは真実をぶつけたつもりだった。
「嘘だよ、嘘! ちゃっかりお城に立てこもって、ぬくぬくしているじゃないのよさ!」
「だから何さ。死んだ人たちゃ帰って来ないよ! あやまれ、落とし前をつけやがれ!」
後ろから、いくつもきんきんした声が上がった。
「まあまあまあ」
そこに割って入って来た、低い声がある。
ふっと背後に気配を感じ、振り返ろうとした所で、ぱあんと痛光が視界を走った。
生まれて初めて頬を張られたエリンには、はじめ痛みが痛みと分からない。ぽかんとしてしまったその一瞬に、腕の中からケリーをもぎ取られる。
ぐるぐるぐるっ、と三つ編みを巻き取られて、エリンは地べたに押し付けられた。
「!!」
「どちら様も、この鼻っ柱の強そうなあまッ娘が、気に入らねんだろーお?」
下卑てふざけた調子の潮野方言だが、ゆっくり話すから周囲の人々には理解できたようだ。
おおおおお、轟くような合意の声が響く。
「そいじゃな、ひとつこの俺らが、あんたらのお姫さまとやらに仕置きをしてやるから。それで死んじまった奴らの供養にしたれやぁ?」
わああああ、今度は歓声が轟く。
路面に押し付けられた顔を懸命にずり上げて見ると、見たことのない男がエリンを見下ろして笑っている。
――いや、一度見た、確かさっきの酒場で呑んでいた傭兵のうちのひとり!
「さて皆、どんなのがええ」
再び男は顔を上げて、周囲を見回す。
「こいつ革鎧を着込んでいるよ、裸にひん剝くのはちっと面倒だなあ。下だけからげて、情けねえ恰好にして、俺ら三人で代わる代わるにやったらいいかな?」
群衆は静まった。期待に心を奪われたもの、良心の呵責に囚われたものとが半々である。
ケリーがもがもが言っている、恐らくすぐ側で仲間の傭兵に拘束されているのだ。
「そんなことして、うちの上司が黙ってるかしらね」
自分の上にいる男だけに聞こえるよう、冷ややかな声を放つ。
「黙ってるだろうよ、あの優男は」
男も囁いた。酒の臭いに、エリンは吐き気を感じる。
「誰か、うんこ出る奴いないかあ」
顔を上げて、男は明るく言い放った。
「こいつ、下からぶつぶつうるせえのよ。熱いやつをひとつ、口ん中つめこんで黙らしたれや」
ぎゃははははは、狂ったような笑い声があふれる。
エリンは本当に吐きたくなってきた。
「俺、しょんべんなら出るよおー」
「よおし、頭からかけちまえ」
「俺も俺も!」
「あたしも、いいかええ」
何人もの足音が、エリンに向けて近づいて来る。
舌を噛もうか、とエリンは思う。
ウルリヒの顔が浮かんだ。
間諜に迫って話させた所によると、兄の身体は公衆の面前で焼かれる前、さらされて切り刻まれた。
エノの傭兵達は見ていただけ、悲憤にかられた市民が、君主の体を文字通りのひき肉状態にしていたと言う。
優しい兄はそれを耐えて丘の向こうに行ったのだ、……生きている自分がこのくらい耐えないでどうする?
生きろ、生きろ、とにかく生き延びるんだ! エリン!
自分自身に気合を入れたくてぎゅっと目を閉じたその時、何か別の音が聞こえた気がした。
……かちゃりかちゃり、 ……いくつもの金属が密やかに触れ合っているらしい。
「こーんばーんはー! 皆さん、おばんでーーす!」
度肝を抜くような大音量の、しかもよく通る美声が、暴風雨のようにその場を圧倒した。
すぐ側へ迫った者たちも、取り巻いた群衆も、あっけにとられたようだ。
全員が動きを止めた。
その中で例の金属音だけが、かちゃりかちゃりと近づいて来る。
どっ、と鈍い音がして何かがどさどさと倒れたようだ。
エリンの場所からは何も見えない。
そして目の前に、にゅっと足が出現した。
草の混じった、乾いた泥だらけの、革の長靴。
苦労して見上げた先に、どろどろに黒く汚れた男が、何かを抱えて立っている。
「うちの女どもを、返してもらおうか」
あんまり怒気がすごくてすぐにはわからなかった、パスクアの声だった。
「どういうつもりだよ? 騒ぎを起こして」
低いかすれ声は、触れただけで切れそうなくらいに尖っている。
「よう、お帰り。無事で良かったな?」
するするっ、と髪を引っ張る力がとける。
左腕にケリーを抱え込んだまま、パスクアはエリンの前に片膝をついて、右腕を彼女の上に伸ばす。
ぱしっ、男の手を払ったようだった。
エリンの左腕、地べたと体の間で痺れていたその腕がぎゅっと強く握られて、それで弾かれたようにエリンは起き上がる。
そのまま吸い込まれるようにパスクアの右半身に抱かれた、丁度大きな鳥の片羽に包まれる卵のかたちで。
「……帰るぞ」
小さく囁いて、パスクアは歩き出す。
左腕のケリーをゆすって、抱え直す。男の肩に顔を埋めてしがみついて、ケリーは泣いているようだった。
エリンは恐ろしく寒かった、ぶるっと身震いが走って、一瞬右腕に置かれたパスクアの右手が離れかける。
それをエリンは左手で押しとどめた。
そのまま力を込めて、歩き続けた。
「はい、ウーアの大盾部隊です、通りますよー! 幅があってすいませんねえー! 皆さん、ごめんなすってー!!」
賑やかな足音が背後に響き始める。
しろい目をした群衆は、ぱあっと散るように脇へとび退いて、それで再び道が、大路がひらける。
灯りの数を増やした城門が、温かい色でエリンを待っているように見えた。




