06 還り来た女1:瀕死の傭兵
それはこの残虐きわまる世界において、たびたび繰り返されている似たような風景のひとつだった。
「おい。的は動かないんだぞ、わざと外してんのか?」
「お前が横でべらべら喋るからだ。気が散る、黙れ」
小雨の降りしきる、とある晩春の日の夕方。
灌木と野いばらの茂みが散在する荒地の外れで、黒ずくめの男は窮地に瀕していた。
それでも立ち枯れた木の幹に背を預けたまま、十数歩離れた所にいる二人の敵兵を睨み、隙を探し続ける。
そいつらの着ている枯草色の外套は、濡れそぼってさらに汚らしく見えていた。
左脇腹の肋骨近くと、左太腿に刺さった矢から、びりびりじんじんと走る痛みが黒ずくめの男を苛む、――こんな体で、どれだけ速く行動できるのか。
素早く右の方向へ目を走らせた。同僚のふたりはそれぞれ頭と首とに数発ずつの矢を受け、既に動かないかたまりとなって、草の中に転がっている。
「もう、終わりにしようぜ? 賭けは俺の勝ちなんだからな。早く帰りたい、かったるい、腹へった」
「だから、黙ってろと」
小型の弓をきりきりと引き絞る射手の目は、的である男から離れない。
もう一人の帰りたがっている射手も、なんだかんだで視線を外さず、下ろした小弓に矢をつがえたままだ。
間合いを外して逃げ出せたとしても、背中に続けざまに喰らうのは必至と思われた。
ならば、何とかして彼らを倒してから逃走するしかない。
絶対絶命の瀕死状態にあると言うのに、男は全く死を考えなかった。
その心の中にあるのは、幼い娘のもとへ帰らなくてはならないという、彼なりの義務感だけである。
ひゅっ、と空を切る音がした。
男は反射的に腰を落とし、両腕を顔の前で受けの姿勢に組み合わせたのだが、新たな痛みの衝撃はない。
次の瞬間、どさりと重い音がして、敵の一人が倒れこむのが見えた。
はっと狼狽した様子のもう一人が、構えた弓を上げようとしたその刹那。
赤と緑――見慣れない色彩をまとった別の影が、その脇で異様に素早く動く。
ばちぃぃぃん、
金属と肉が鋭く衝突する音が響き、敵兵二人目は大袈裟な弧を描いて、仰向けにふっ飛んだ。
黒ずくめの男は動かず、息をつめたままその人影を凝視した。折しも、雨粒がつとこめかみを流れ落ち、丁度その真上に受けていた切り傷の血を含んで、左眼の視界を朱に染める。
その人影――その女性の濡れた髪が、まさしく血に近いような赫さであるのが見えた。
「ふん! 胸くそ悪いったら」
低い悪態が、男の耳に流れてくる。
がさり、とその後方の茂みをかき分けて、青っぽい外套をまとった小柄な影が出てきた。
「危ないんだから、もう……」
「本当だよ。手負いの敵相手に試し撃ちなんて、こんな危ない馬鹿どもが飛び道具持ってのさばるなんて、最悪。殺すなら、さっさと殺せばいいのにさ」
「いえ、あの……。あたしはイオナちゃんの、そういうよくわかんない義侠心が危ないって思うんですけど……。あ、死んでないね。気絶させたのね」
青い人物はしゃがみ込んで、敵兵の息の根を確認したようだ。
その後ろに、もやりと黒っぽい大きな影が立ち昇る。こちらは男らしい。
――誰か、援護を回してくれたのかな? ……いや、そんな馬鹿な。
訝しみつつ、男はますます抗いがたくなってきた各所の痛みに耐えかね、ついずるりと背中を木の幹に沿わせ、そのまま地にくずおれてしまった。
ぼやけかけてくる視界の中、濡れそぼった赫い頭髪に包まれた白っぽい顔が、すぐ目の前に浮かんだ。
「あなた悪人? それとも自称善人? どっち」
男には、その問いかけの意味がわからなかった。失血のせいか、どんどん意識が虚ろになっていく中で、ひと筋の警戒心だけが、彼を現実に繋ぎ止めていた。
しかし悪意のみえない娘のまなざし、――そう、それはうら若い娘だった――それにつられてつい、心身は楽になる事を選んでしまった。
「……そんなの」
しわがれた声で、男は絞り出すように言った。
「俺が決める事じゃ、ないだろう……」
がっくりうなだれた男を見て、三人は顔を見合わせた。