56 緑の騎士の離郷8:膝の体温
暮れるとともに風が広がり、静かに降り出した雨はやがて本降りとなって、テルポシエにある家々すべての屋根と鎧戸を叩き始めた。
小さな嵐になるのかもしれない。
しかしイオナの髪は半ば乾きかけ、炉の炎によって一層あかあかと照らされていた。
肘の辺りの擦り傷に薬油をつけ終えて、老人は炉端にうずくまる彼女の肩に、毛布をかき寄せてやる。
薬翁が使っている部屋には簡易式ではない据え付けの炉があって、中にかけられた小さな鉄鍋が湯をたぎらせていた。
「二人とも、外傷は大したことなくて良かった。風邪をひかんようにね」
低い声には滋味がこもる。
「メインも、本当に大丈夫なんだね?」
「うん。俺は平気」
炉に泥炭をくべていたメインが答える。
頭に布がぐるぐる巻きつけてあるが、これは怪我ではなくて単に髪を早く乾かしたいがためだ。
「じゃあ、私はそろそろ負傷者の見回りに行く。イオナはしっかり温まってから、部屋にお帰り」
イオナがエノ軍先行を辞めて、既に寝台も部屋も引き払っていることを知らない薬翁は、そう声をかけてからメインを見た。
「泥炭がなくなったら、炭を使ってもいいよ」
「ありがとう、爺さん」
薬類のみっしり詰まった籠を手に、老人は部屋を出て後ろ手に扉を閉めた。
――あの子は、一体……。
職業柄、めったなことでは驚かない薬翁ではあったが、内心ではかなりの動揺を感じていた。
数日前のエノの死去も相当の衝撃だったが、愛弟子が精霊を使う力を持っているとパスクアから聞かされ、やがて本人から言われた時は、言葉を失ってしまった。
一体いつ、そんな時間をつくったのだろう? それが正直な感想である。
メインは物覚えがよく、薬づくりの手伝いを地道に続けて、あらかたの治療の術を吸収していた。薬の道もそうだが、精霊を使うというのも生半可な学びではなかろうに。
幼くして母に死に別れてから、ずっと近くにいたような気がしていたのだが……。
――しかも、水棲馬から娘を救った、と⁇エッヘ・ウーシュカと対峙して生き残った者の話など、昔も今も聞いたことがない。
それこそ精霊に化かされたような気がして、老人は頭を振り振り、負傷者のいる病棟まで歩きついた。
「爺さんッッ」
そこへととと、と駆けて来た者がいる。
廊下の壁には幾つもの蜜蝋燭がつけられて暗くはないが、男があまりに見慣れない分量の髪をふり立てていたので、薬翁には一瞬見分けがつかなかった。
「何だ、パスクアか」
「メインとイオナが! 精霊に襲われたって本当なのか、大丈夫なのか? 生きてんのかッッ」
もこもこの白金巻き毛の中心にある顔は、疲弊しきっていつもの端正さが見る影もない。
げっそりと青黒いくまに縁どられた眼が真っ赤に充血して、それが泣きそうなのだから、痛々しい事この上なかった。
「……二人は大丈夫だ。疲れているから、見舞うのは明日にしてやんなさい。それよか、お前の方が深刻だ」
安堵して気の抜けたようになったパスクアの手を取ると、老人は小さなものを握らせた。
「何これ」
「屋上に生えとった金柑だよ。これ食って、とにかくさっさと寝なさい」
「あ、まだやる事が色々残ってて……」
「死んじまうぞッッ」
「……はい……」
しょぼんと頭を下げると、パスクアは踵を返して歩き去った。
そのすぐ後、小さく開いていたひとつの扉が静かに閉まる。
「ねえ、ねっ」
小さな蜜蝋灯りの下、編み物を続けるエリンの横で、外套のほつれを直そうとしていたリフィの耳元にケリーが囁く。
ぴくりとして、準騎士は針を置き机を離れる。
「しー。姫様が考えごとしてるみたいだから、邪魔しちゃだめだよ。お手洗行くんじゃなかったの?」
「だけど、ねえっ、見たんだよ!」
囁きつつも、ケリーは興奮が隠せない。
「今、そこん所の廊下にね! 本で見たお獅子みたいな人が、いたんだよッッ」
「……おしし……?」
困惑しつつ、リフィはそうっと扉を細く開けてみた。
リフィの顔のすぐ下から、ケリーが覗き込む。
「誰もいないよ」
「……行っちゃったんだ。でも、ねえ、本当に見たんだよ」
目を丸く見開いて自分を見ているケリーに、リフィはまじめに頷いた。
「……信じるよ」
エノ軍には、まだまだとんでもないのがいるのかもしれぬ。油断は禁物だ!
「よしケリー、お手洗は一緒に行こう」
「そうしよう」
二人は静かに廊下へ出た。
自然に手と手が繋がっていた。
久し振りに握ったケリーのその手が、ちょっと大きくなっているな、とリフィは思った。
・ ・ ・ ・ ・
左手でもう一つ、メインはひょいと泥炭を炉にくべる。
そのまま右手で頭のぐるぐる布を取ってみた、まだ髪が湿っぽい。
彼は両手利きだった。
「しっかりしなよ。ちゃんと助かったし、俺も生きてるし」
毛布の中にうずくまったまま、じっと動かないイオナに言う。
「白湯、もう少し飲む?」
ふるふる、と彼女は頭を横に振った。
炉の方を向いたまま、メインに顔も合わせない。
小さな陶器椀に鍋の中の湯をすくい取ってから、メインは後ろの方にある診療用寝台に腰かけた。
少し時間をかけて喉を潤してから、口を開く。
「こないだ言ってたよね、自分をかばって死んだ人たちのこと」
イオナの背に向かって、続けた。
「俺、その人たちの気持ちわかるよ。あなたは、何が何でも守り抜きたくなる人なんだ」
反応はない。
「俺も、同じこと言いたいよ」
反応は全くない。
「……けど、それじゃあなたは納得しないし、誰も幸せにならない。だから考えた」
動かない背中の向こうで、イオナの心がざわついているのをメインは“見て”いた。
手の中の椀が冷めたので、脇に置く。
今、こんな疲弊の中にある彼女にぶつかって行くのは、酷かもしれない。けれど今しかない。
彼女のざわつきが向かっているのが好い方向へなのか、あるいは嫌なほうへなのかは、あえて見ないようにした。
「大好きなイオナのために、俺は死なない。誰のためにも、死ななない、こほん」
――ああ、やっぱかんじゃった。
「だから大好きなあなたのために、俺はじいさんになるまで、元気に生き延びようと思う。それだけ」
背中がもぞりと動いて、赫髪の中からイオナの顔が振り向いた。
何となくむくれたような、ぶっちょう面のようなその表情。メインは内心ひるみまくっているけれど、そこは耐えるのだ。
ゆっくり立ち上がったイオナは、じっとメインを見下ろした。
「うそ」
短く低く言う。
「……にならないよう、すっごい努力する」
すっ、と目の前にイオナが右手を伸ばして来た。
どきりとしたその瞬間、額の真ん中に強烈な衝撃があたった!
……びんっ。
「――ッッ!!!」
息を呑んで、でこぴん部分を押さえたメインの右手下をかいくぐり、イオナは伏せた顔を彼の膝がしらに埋めた。
「あたり。ありがとう」
そのまま、すこし泣いた。
涙目のメインも思う、当たりってなに。
でもそれ以上に、股引の厚布を通して膝がしらに伝わるイオナの体温に動揺して、もうどうしたらいいのかさっぱり分からなくて、微動だにせずそのまま固まっていた。
意を決して、がしがし震える手でちょっとだけ、膝上に広がる赫毛に触れてみた。
もうすっかり乾いた表面に、炉の熱がこもっていた。
イオナは嬉しかった。
水棲馬と海に喰われかけた、あの冷たさはもうずっと過去のものになっていて、ひたすらメインの温もりに浸っていた。
自分の嬉し涙まで、あたたかかった。
――細っこくて、つるつるで、女の子みたいな顔をして。もう全然、ぜんぜん全然趣味じゃないのに。……この強力なあったかさは一体、何なんだろう。
自分がずっと探していたことば、それを言い当ててくれたひとに、とうとう出会えた。
イオナは心底、嬉しかった。




