55 緑の騎士の離郷7:水棲馬
「はー、やだやだ。うざったいんだから、もう……」
もう一度後ろを振り返ってから、さすがにもう追っては来ないだろうと踏んで、イオナは駆け足から早足に切り替えた。
テルポシエ市には西・北・東と三つの門があり(南には港がある)、東門がイリー諸国を結ぶ街道へと繋がっている。
郷里へ帰る傭兵達はほとんどがこの東門を通って、北向きの街道合流を目指すのだが、イオナは市外壁沿いに浜へ下って、今は海ぞいに歩いていた。
包囲戦中とび回っている時に、浜ぞいの湿地帯との境界線をたどって行けば、最短距離でシエ半島へ行けることを知った。
まずは、消えたヴィヒルとアランの足跡を追う必要がある。
海を右側にして歩を進めながら、イオナはさっき煙に巻いて来た薬翁助手のことを、いま一度思い返す。
――本当に、変な子だったなあ……。でもああいう、癖のない顔に限ってしつこかったりするから(義姉・談)、念のためにしっかりまいておいて良かったのかもしれない。
にしても、と頭を捻る。あの子はわたしを好いて、あんなことを言ったのだろうか?
そうとも取れる。けれど今日も、情欲の臭いはまるでしなかった。
この間の夕方、病んだ勢いでつい自分の気持ちをさらけ出してしまったから、ひょっとしてその辺を心配して、言ってくれていたのだろうか……だとしたら、まるで優しいだけの良い奴ではないか。
「いやいや。あいつ、わたしの右掌底をとめたじゃないの」
つい、独り言が口をついて出る。
そう言えば初撃の手刀だってかわされたのだ、偶然ではない。
ひょろひょろのつるつるだったけど、案外できるのかもしれなかった。
「ん?」
ふ、と前方に動くものがあるのに気付く。
波打ち際をとことことこちらに進んで来る、灰色馬の姿がある。
近づくにつれて、手綱だけがつけっ放しにされているのがわかった。
なかなか立派な牡馬である、鞍はつけていない。
イオナがそろりと砂浜へ降りて歩み寄ると、馬も立ち止まって彼女を待つ様子である。
「ご主人は? 乗り捨てられちゃったの?」
低く声をかけると、ふんふんと鼻を鳴らす。
「ずいぶんおとなしいね。男前だね」
長いまつ毛の下、美しい瞳を煌めかせて、まるで手綱を取ってとねだるように首を揺らす。
「ふふっ」
イオナは考えた。
――ちょっとだけ、この子を拝借させてもらおうかな?
考えつつ、さがった手綱を左手で掴んだ。
その瞬間、馬がたた、と動く。
引っ張られてイオナも瞬時、宙に浮く。
いきなり歩き始めた馬をなだめようとして、並行して引きずられるように歩きながら、手綱を握った左手と右手とで、首筋を軽く叩く。
「どうしたの、急に? どうどう、」
その両手が、粘着質に貼り付いた。
馬はイオナを貼り付かせたまま、駆け出す。
今度こそ本当に、イオナは宙を飛んでいた。
悪寒が全身を駆け抜けた。
♪ うみべで うまに であったら……
アランの歌声が頭の中に響く。
ずっとずっと昔、集落の子ども達とよく歌っていた。
♪ けして さわるな つなとるな……
イオナは馬を見た。
もう、さっきまでのおとなしさはどこにもない。煮立った大鍋から上がる湯気のように、猛烈な息を噴き出しているその鼻づらも毛並みも、昏い青色でぬらぬらと光っている。
貼り付いて動かせない両手のひらの下に感じるのは、冷たく厚い鱗の硬さだ。
――水棲馬!!!
♪ とったら おわり
イオナは首を伸ばし、巻き外套の襟部分に仕込んでおいた短刀を口で取り出した。
――貼り付いた部分を、えぐれば!!
しかし次いで前方を見た時に、絶望が視界いっぱいに襲い掛かって来た。
♪ きものこ のこして くわれて おわり
海だった。
波間に跳んだ水棲馬を透かして、イオナの体の全周囲を、闇ぐろく貪欲な海が取り囲み、大きな大きな口を開けているのがみえた。
オカエリイオナ イトホシキマナムスメヨ サアサア ワタシノナカヘ
――喰われる、
がさついた大きな手が、緑色の光をまとって、水棲馬の尾の先へと伸ばされた。
ばっしゃあああああん・・・
大きな水飛沫がたち上がる。
巨大な泡が湧いて、暗色の海がそこだけ瞬時に白くなる。しかし泡は波に押され、すぐに消えていった。
それきり、響くものは波音ばかり。
上空を飛び回っていた炎の妖精と藪にらみの騎手は、お互い泣きそうな顔を見合わせて、何も言えなかった。
と、いも虫流星号が、きっと沖合に頭を向けた。
だいぶ離れたところの海面にぽこりと泡が立って、そこからずざりとあざらしが頭を持ち上げた。
プーカの翼の炎が、ぎらぎらっと黄色く燃え上がる。
あざらしの頭に見えたものは、濡れた黒髪を貼り付けたメインだった。
荒く息を吸いこみながら叫ぶ、
「ありがとう、皆。助かった!!」
その周囲を、何体もの海の娘たちが囲み、支えている。
メインは両腕いっぱいに、イオナの体を抱えていた。
海の娘たちに伴われ、ようやく波打ち際までたどり着く。一体のメロウが、ずぶ濡れのイオナの巻き外套の裾を絞ってくれている。
がちがちと歯を叩きながら、イオナはひたすら震え続ける事しかできない。
メインの短衣の襟ぐりにしがみついた手も、貼り付いた赫毛の中にのぞく顔も、血の気を失って真っ白く凍えていた。
「もーう、大丈夫ッッ」
メインは前を向いたまま、大きく言った。
こうしないと、気合を入れないと、彼自身も我を失ってしまいそうなくらい、恐ろしい経験を越えたばかりだったから。
「大丈夫なんだから!! 城まで、こらえてよッ」




