53 緑の騎士の離郷5:間諜の訪れ
正午をまわって、もう半刻も経ったろうか。
食事をする輩もほとんどいなくなって、誰もが午後の持ち場に戻りつつある。しかしエリンとシャノンとは、無言のまま壇に腰かけていた。
そうして、ようやく待っていたものの気配をとらえる。
「姫様には、ご機嫌麗しゅう」
虫の音のような細い細い声で、背後の月桂樹とその下の灌木の中から、挨拶がなされる。
さすがにどきりとして、エリンは前を向いたまま、何も言わなかった。
たくさんという程ではないが、目の前を通り過ぎるエノ傭兵たちはうようよと途切れ目がない。
やはり前を向いたままのシャノンが、低い声で言う。
「心配いりません。先にお話した方です。そのまま普通に話して下さい、私と話しているように見えるでしょう」
「……ごきげんよう」
それで少し安堵して、エリンは声に応えた。
「囚われている騎士たちの状況は?」
「完全幽閉ですが、食事はきちんと配られています」
年輩なのか若いのかわからない、さらに言えば女性なのか男性なのかも曖昧な声である。
詳しくは知らないのだが、シャノンが個人的に繋がっている間諜たちの一人らしい。
陥落前からずっと市内に潜伏しており、彼らのおかげで城内に隠れていたエリンたちは、随時新たな情報を得る事ができていた。
エリンが直接話すのは、今回が初めてである。
「明日の午後、傭兵全員に今回の軍役の報酬が配布されるそうです」
「ええ」
「それを受領して、故郷へ帰る者が相当数おります。これらの出稼ぎ傭兵達に紛れ込んでしまえば、全員の脱出も比較的容易かと」
「“通路”は機能しているのね」
「はい」
エリンの胸中がじわりと熱くなる。
そうだ、テルポシエはまだ脈打っている。死に絶えてなぞいない、ここからこそ生き延びるのだ。
「……脱出後は?」
「とりあえずは細かく分散して、他のイリー諸国や同盟市へ。エノ勢力の届かない所で、抵抗組織を作っていただきます」
「結構。これは実際に脱けてみなければ、わからないわね」
「はい。そして、姫様方が脱出なさる段取りですが……」
「あ、わたしは残ります」
声が黙りこくった。
隣のシャノンは、相槌を打つように口をぱくぱくさせる演技を続けている。
「わたしは、この城を離れません。そしてわたしのやり方で、あなた方を補佐します」
「……しかし」
エリンは、みぞおちのあたりに力を込めた。
「野蛮人どもがどう考えているのかなんて、知ったことではないわ。けれど黒羽の王統継承者、イリー王族たるこのわたしがいる限り、ここはわたしの家であり、テルポシエはわたしのものです。ちがって?」
溜息が聞こえて来た。
「仰ることはわかります……。けれどこの先お気持ちが変わっても、こういう機会がいつあるかは知れませんよ?」
「二言はありません。わたしはエノの人質ではなく、国と城の守護者としてここに残るのです。エノの盾になるような無様な真似はしませんから、安心なさい」
「わかりました……。ただ、くれぐれもお気をつけ下さい。姫様の行為は、一歩間違えればイリー国家テルポシエへの反逆とも誤解されかねません」
どんどん硬くなっていった間諜の言葉には、最後に厳しさすら混じっていた。
「ええ、わかっているわ。あなたも、皆さんも、どうか無事に生き延びて、故国再興のわたしの知らせをお待ちなさい」
「ご健勝を」
最後の短い言葉が届いたのち、沈黙が続く。
「……行っちゃったのかしら?」
エリンはシャノンを見て、ぼそりと囁いた。
「いえ、まだおります」
即座に、きまり悪げな声が返って来て、エリンはびくりと前のめりになった。
ぷぷっ、とシャノンが小さく噴き出す。
「申し訳ございません、お伝え忘れていたことがありました。実は、唯一無傷で生き残った市民兵の遊撃隊を発見しまして」
「!!」
城外での戦闘にあたっていた二級騎士は、全滅したと誰もが思っていた。
「その……元々が市民なのですから、軍装備をといて、こっそり市内実家に帰ってもいいのだと言ったのですが。実に変な面々でして、独自に対エノ戦線を張ると申しております」
「何それ」
「ですので、今後我々の網に加えて、彼らが直接姫様方に接触してくることもあろうかと。頭の回る者なのですが……その、本当に変わってますので……驚かれませんよう」
エリンとシャノンは、顔を見合わせた。
「何て方たち?」
「第十三遊撃隊です。 ……それでは、ごきげんよう」
今度ははっきり、気配の消えたのがわかった。
シャノンがにこやかに言う。
「我々もそろそろ、部屋に引き上げましょうか」
立ち上がりかけるその草色外套の袂に、さっとエリンは手をかけた。
「シャノン、頼みがあるの」
「はい?」
シャノンの大きな左手を、エリンは自分の両手で取る。
「この際、ちゃんとしておきたいの。あなた、わたしの“傍らの騎士”になってくれる?」
大きな翠の瞳に見上げられて、騎士は息を呑む。
驚いたのは初めてだったからではない。既視感があったからこそ、どくりと全身が震えたのだ。
よく似た双眸をまっすぐ向けて、かつて彼女の主君は問うた。
――なあ、シャノン。次の、……俺の“傍らの騎士”、お前がやってくれないか。
繋いでいたのも、たまたま同じ左手だった。
――俺は、お前がいい。
だから今回も、シャノンはその手をぐっと握り返す。
そして一度目と、全く同じ返事をした。
「謹んで、お引き受けいたします」




