49 緑の騎士の離郷1:財産管理庫
――ああ嫌だ、やっぱり臭いかも……。
太い三つ編みにして肩から前に垂らしてある、自分の髪にこっそり鼻を近付けて、エリンは顔をしかめる。
最後に髪を洗ったのは、いつだったろう。真冬とは言え時間が経てば脂がたまるし、色々と冷や汗もかいていたから、エリンは自分の身体に大いなる不安を感じていた。
唯一の希望は、ともに過ごすシャノンたちの体臭が気にならないことだ。自分もそうであって欲しいと思いつつ、再び作業に戻る。
エノに“仲間入り”する形で、どうにか命拾いした彼女と親衛隊の娘たちは東の棟、女性負傷者達の病室の向い部屋をあてがわれた。当分の間はあまり出歩かず、息をひそめておけと言われる。
その通りにするつもりだったのに、向こうから手伝えと呼ばれてやって来たのは、中広間真下の財産管理庫である。
何となく予想はついていたから、シャノンと顔を見合わせて、お互い無言で肩をすくめた。
長い白金髪の“上司”パスクアとやらが、しかつめらしい顔をして机の上に出してきたものは、生き残った貴族の名簿、および彼らの差し出した身代金一覧を記した筆記布だった。
「我々がテルポシエ貴族と騎士要員の個々を把握してる、なんてことはもちろんないから、」
かなり厚みのある布の束、その端をぱらりとめくりつつ男は言う。一応の正イリー語だった、使い分けができるらしい。
「だから君らの目でいちど、確認してもらえるか。急がなくていい」
乾いた調子でそれだけ言うと、腰掛けに座ったエリンとシャノンを残し、自分は部屋の反対側、もう一つの机で作業をしている二人の男のもとへ行ってしまった。
エリンは布束を手に取った。
恐らく身代を供出した際に、ひとりひとりが書かされたのだろう、名前と金額――そのひと自身の価値――がまるで、それぞれ顔を持ってエリンの前に現れたようだった。書き癖とはこうも人をあらわすらしい。
パスクアと他の二人は別の件で話し込んでいるようだから、シャノンと話しても別に構わないだろう、と思う。
最初の一枚をひととおり眺めた後、シャノンに手渡す。
「ここに記載のない人たちは、亡くなったということね」
「ええ……」
後はじっくり、二人で布に見入った。
時たま、エリンもシャノンも全く見当のつかない人の名が出てくる。けれど結局、テルポシエ貴族約四千五百名の運命がわかってしまった。
防衛戦に出た騎士は全員死亡。港湾守備の百余名は新北棟の地下牢に拘束され、残された家族は身代金を供出して市外へ逃亡していた。シャノンとリフィの母親、叔父一家の名もあった。
また、名はあるものの供出金額の記されていない者もいる。何らかの理由で身代金が払えない人々……これは奴隷として売られるのだろう。その少なからぬ数を見て、エリンはぐっと奥歯を噛みしめる。
ウルリヒ・エル・シエの名はどこにもなかった。ミルドレ・ナ・アリエの名も。
当たり前のことだが、それでもエリンにはやはり、実感がわかない。実感したくないだけかもしれない。
うつむいたままでいると、ふと向こうの机のやり取りが耳に入って来る。さっきから、少し三人の声が大きくなってもいた。
エノ傭兵たちが話すのは“潮野方言”と呼ばれる言葉で、東側世界で広く使われている。都市部イリー人の話す正イリー語と異なるのは、書き言葉の有無であって実はほとんど同じ言語だった。どちらも西方のティルムン語を母体としているのだが、潮野方言は東部の原住文化と深く交わって独特の言い回しが多い。それに抑揚のつけ方がだいぶ異なるから、早口でまくしたてれば、エノ軍とイリー人とは簡単に相互不理解になり得るのだった。
男達はエリンにわかるまいと踏んで、ずいぶん込み入った話をしていた。
軍の出納係がかなり弱っているようだ。パスクアともう一人、お仕着せ装備の平傭兵らしいのが粘り強く解決案を捻り出そうとしているが、話はなかなかまとまらない。
かたん、と音をたててエリンは立ち上がった。
「終わったわ」
エノ軍の三人は口をつぐんだ。
「どこか、あからさまに変なところはなかったか」
パスクアが平坦に聞いてよこす。
ふるふる、とエリンは首を横に振る。
「いいえ。ただ……」
パスクアが席を立ち、こちらに来る。エリンも再び座った。
シャノンが不思議そうな顔をして、エリンを見ている。
「何だ」
正面に座って、パスクアがこちらを見すえた。
「この身代金供出額のない人たちは、もう売られてしまったの?」
「いいや、まだだ。奴隷商人が来るまで、市外壁倉庫に拘束してある」
この時代、労働人口としての奴隷を最も必要としていたのは北部穀倉地帯である。
エノ軍はこの地域とイリー都市群を結ぶ街道を押さえ、流通の安全を保障するという名目で商人から金品をぼったくり、経済的な基盤を作っていた。
しかしながら、テルポシエから北上する街道部分も長らく封鎖されていたため、陥落を聞きつけた目ざとい奴隷商人がいたとしても、彼らが到着するには今少し時間がかかる。
「……わたしたちのいた、隠し部屋のある書庫だけど」
エリンはまっすぐにパスクアを見据えて、ごく低く囁く。
「あそこの写本類をごっそり売れば、困っている部分に充てられるわよ」
「……?」
意味が呑み込めないらしい。少しだけ傾げた顔に表情はなかったが、その瞳の色が自分と同じであることに気付いて、かえってエリンが慌てる。
狼狽を隠すために一瞬目を閉じ、また開いて、そしてわざと高飛車に言ってやった。
「あなた方には価値のないものでしょうから、処分することをおすすめするわ。そこの羊皮紙とって下さる、ガーティンローとファダン、オーランの古書商に便りを書いてあげる。近いからすぐ来るし、競りの形式を取れば、三十人程度の身代金なんて、現金でざらっと支払ってくれるはずだけど!」
翠色の目を瞬かせ、口を水平に引き結んで、パスクアが固まった。
「傭兵達の報酬は、現金払いでないとだめなんですものね!」
――ふん、聞こえていてよ。
「……」
机の上の墨壺を取って硬筆を浸すと、エリンは羊皮紙上に、すらすら文言を連ねて行った。
「はい、一枚目、これはガーティンローの書店へ。シャノン、ファダンへの二枚目を写して。わたしはオーランへの三枚目を書くわ」
「署名部分だけ空けますか?」
「ええ、そうして頂戴。わたしが……そうね、書庫責任者とでも書いておきましょう」
パスクアは片肘をついてその右手で口元を隠し、二人が瞬く間に書をしたためて行くのを無言で見ていた。
シャノンが手燭で蜜蝋を溶かし、封をする。
「あ、印はどうしましょうか」
女性騎士がふと聞いた。
「あなた、エノ軍の書印はお持ち?」
たかびしゃ絶賛続行中、エリンは上から口調で目の前の男に問う。
「……出納係が持ってるが、」
男の口は重たい。
「テルポシエのを使った方が良いだろ、この場合。あんたが王族の私物を現金化して、それで身代未払の貴族連中の立替にするのなら」
「そうね」
エリンはあっさりと言った。
「じゃあ王城書印を使います。そこの引き出し右に……そう、その黒いのください。ありがとう、はいシャノン」
きれいに巻かれた三通の書が、机上に行儀よく並んだ。
「じゃ、ご用が済んだようなので、わたしたちはこれで。また、何かあれば仰って」
エリンは笑いもせずに立ち上がり、つうんと踵を返した。
勝手に部屋を出る。パスクアに頭を下げて、一応の礼をしたらしいシャノンが後に続く。
廊下をぐいぐい、肩を切って進む。シャノンが囁いた。
「あのご本の中には、姫様のお好きなものがたくさんありましたのに」
「ん、べつにいいの」
きゅっと肩をすくめる、精いっぱいのさりげなさだ。さよなら、わたしの少女時代。
「……上司どのは、割と良い方かもですね」
「あら? どうしてそう思うの?」
「どうしてって……。我々にあの名簿を見せることで、知己の安否を教えてくれたじゃないですか」
「あ、そうか。そういう見方もあるのね。わたしはてっきり、敗者の敗者たる実態をばしっと見せつけて、こう……上下の関係をわからせようという企みを感じたんだけど」
「いえ、あの御仁そこまでこじれてはいないと思いますよ」
――じゃ、こじれてるのってわたし?
「身代を払えなかった人たちが奴隷になるのを、姫様が食い止めるのも黙認してくれましたし」
「……今日こそは、体をきれいに拭きたいな」
だめだ、やっぱりシャノンには敵わない。形勢不利を感じて、エリンはさっぱり話題を変える。
「ですね。あの負傷した女性傭兵の方みたいに、水をもらってみましょうか」
「そうね。頭が臭っちゃって、困るもの」
「はあ?」
ぎょっとしたように、シャノンは言った。
横を通った若い傭兵らが、ちらちらと二人を見過ごしてゆく。
「姫様は何ともにおいませんよ、心配いりません」
「……」
「本当ですよ、一級騎士は嘘をつきません。臭いというなら上司どのです」
「はあ?」
今度はエリンが声を上げた。
「多分、どこか打ち身のひどいのがあるんでしょうね。うさ菊軟膏の臭いぷんぷんだったの、気づきませんでした? ご自身、必死に身を引いて我々にばれないようにって感じでしたけど、シャノンの鼻はごまかせません」
「……そう……。」




