47 父殺しの新王3:寒空の廻廊で
右頬の下をちょっとかすっただけ、そう思っていた傷はやや深く切れていて、その日の夕方にもう一度化膿止めの処置をしながら、メインは顔をしかめていた。いたた……。
『おばんですぅー』
かすかな声が耳に入ったので、自室の鎧戸をずらしてみる。
部屋の隅に燃える簡易炉の灯りとは別に、ぼんやり光るものがふらりと入って来た。
『はーいメイン、……て! ほやっ!? どうしたん? ひどい顔、怪我したん、大丈夫なん!?』
沈みかけの太陽のように温かく光るこぶし大の鬼火は、寝台に腰かけたメインのまわりを飛び回りつつ、早口にまくしたてる。
火はふっと形を取った、ちらちら燃える翼を持った小妖精だ。こどもみたいな体つき、つるっと丸い頭の上にはかたつむりに似た角つのが出ている。
「何かあったの? プーカ」
『はっ、そうね、何かあったから来たんだった。何だっけ、えーと。……ああそう、娘っこがねー、また抜け出しよったよ! どうする?』
ぺたり。溜息をつきながら、メインは軟膏を塗った傷の上に、小さく切った晒しを貼る。
外套を掴むと、炉に蓋をしてから部屋を出た。
ものすごく疲れていたけど、それでも彼の心は喜びに急いて、軽かった。
・ ・ ・ ・ ・
今朝と同じ、城下をひろく見渡せる吹き抜け廻廊に、イオナは座り込んでいた。
ここなら城内の喧騒は届かず、市街のざわめきからも遠い。
時折ゆらめく街なかの灯を眺めつつ、空虚に浸りこんでいたイオナだが、背後に気配を感じて、さっと左手を手刀に構える。
ぎっと振り返ってねめつければ、困り顔をこしらえた薬翁助手であった。拍子抜けする。
「……あんたか、」
道理で“欲気”を感じないわけだ。
けれど、その助手の瞳がみるみる大きくなる。
まっ暗闇の中というわけではないから、やはり見えてしまうのだろう。
イオナは市街の方へ、体の向きを戻す。
「傭兵だって。泣きたいときとか、……あるんだよ」
ず、鼻水を啜る音がやたら耳について大きい。
メインは隣に座り込んだ。すぐ側ではなく、身一つ分あけて。
そのまま誰も、何も言わない沈黙が続く。
せっかく見つけた静寂を破られて、イオナは正直腹を立てている。
しかしこのひょろい薬翁助手からは、嫌な匂いがしないことにも気付いていた。
こういう時、一人でいるイオナにすり寄って来る男からは何がしかの情欲が漂うものなのだが、助手にはそれがない。恐らく朝と同じで、患者の自分を病室に連れ戻すべし、という使命感だけでここにいるのだろう。
そう考えたら、隣に座っているのは猫とか小鳥とか、そういう気兼ねのいらないもののように思えて来た。
しかし、メインは気楽ではなかった。
徐々に帆布外套の襟をかき合わせ、手足を縮める。溜息がだんだん連発になってきた。とうとうイオナの耳にも、かたかたと身震いで歯の鳴る音が届くようになる。
ここだけの話、男子に珍しく彼は冷え性で、寒いのが苦手だった。恐ろしい精霊を召喚できても、こればかりはどうにもならない。
「……ここ、海風吹き込むし……、寒くない?」
意を決して、メインはついにイオナに話しかけた。
「……寒い、かな」
一方のイオナはめっぽう寒さに強かった。
何故だかは知らないが、ヴィヒル同様これまでの人生において、しもやけやあかぎれを経験したことが一度もない。これもここだけの話なのだが、いつもは自分と兄とで、寒がりのアランを挟むようにして三人で寝ていた。
ひゅおおおおおおおお。
風が二人の髪をなぶって通り過ぎてゆく。
「……病室に入ってた方が、いいと思わない?」
精いっぱいのさりげなさを装ってはいるものの、メインの声には悲痛さがあった。
「隣のお姉さんのいびきがうるさいから」
却下するイオナの声は、風以上に冷たい。
「俺の部屋、一応火が入ってるけど」
これだけ聞けば誘っている、しかしこの時のメインは下心なんてみじんこほども持っていなかった。
何をどうでも、この寒さから逃げ出したい一心で、イオナにそう言ってみただけなのである。
暗がりの中、傍目にも真っ青、いや通り越して真っ白になったメインが、かちかち唇を引きつらせているのをちらと見て、イオナにもそのことはわかった。
だから何となく、口に出してみる気になった。
「どういう理由か知らないけど。あんた、あの時戦場に来てたよね?」
「え? あ、うん」
「じゃあ、見てたでしょ。ニーシュが殺されたの」
急に男の名前が出て、メインは瞬時寒さを忘れる。
「彼の前にも、いたんだ」
低い声でぼそぼそと言いながら、イオナはゆっくりと立ち上がり、脇の石壁に右手を添わせる。
「好きな人。たまたまみんな傭兵で、強かったんだけど」
翻る彼女の巻き外套と髪とに遮られて、横から見上げるメインの目に、イオナの表情はよく見えない。
しかし彼の心には、その慟哭が、哀しみが、しっかりと見えていた。
「……皆、死んでしまった」
石壁をなぞる手のひらに、力がこもる。
「わたしの、目の前で!!」
哀しんでもいるけれど、同時にイオナは怒ってもいた。
ただ、何に対して怒っているのか、何のための悔し涙なのかは、自分でもよくわからないのだ。
だからこの涙は自分の子どもの部分……そう言い聞かせて我慢してはいるのだけど、時々こうしてむやみに決壊させたくなることがある。
――ああ、わからない。
毒の余韻と疲弊とが、弱ったイオナに本音を垂れ流させる。
「わたしを好きだって言っておきながら、皆わたしを置いて離れていく。みんな、丘の向こうへ行ってしまう」
メインは無言だ。
「本当に強いんだったら、何で一緒にいてくれないの」
言いながら、語尾にとうとう涙がまじった。
「わたしを守るとか、わたしのためなら死ねるとか、……わたしが欲しいのはそんな言葉じゃない。そうして欲しくもないのに……」
メインはやはり、いつまでも無言だった。
はあ、と顔を左腕でぬぐってから、ようやくイオナは傍らの男を見下ろした。
「ごめんね。毒のせいだよね、これ」
「そうだね」
返る言葉はやさしかった。
「耳栓して、寝てみる」
くるり、と踵を返してイオナはすたすたと廻廊を後にした。
「お大事に」
振り向かず、座ったままでメインは言い送った。
橙色の小さな灯がふわりと漂って、メインの足元にとまる。
『はらはらしたー。メインさあ、動けなくなるまで我慢するってどうなのよ。ひゃー、冷た』
「……うるさい。とっとと温めて」
炎の精霊プーカはあかく輝く小さな羽を広げて、革草履ばきのメインの両足を、じんわりとくるみ込んだ。




