40 テルポシエ陥落戦20:陥落
ウルリヒは長く息を吸い、そして吐く。
かろじて無傷の左腕は、今や彼の姿勢を支えるためだけに立っている長槍に、重くすがりついていた。
利き腕の付け根には矢が立っている。もう肩を上げることもかなわないその右半身には、一級騎士の一人が寄り掛かっている。
若い騎士は自分の身を盾にして、王の代わりに数十の矢を背に腰に首に受け、立ち尽くしたまま死にゆくところだった。
自分の前にはテルポシエ最後の防衛壁、すなわち騎士たちがその身でみっしりと組んだ壁がある。
「おえ がっっ」
「ぎい あっっ」
「うごぉぉぉ」
宮廷で囁かれた流麗な正イリー語とは似ても似つかない、獣の如き叫びが前方から絶え間なく届く。
ウルリヒはのこされた右眼で、辺りを見回した。
――ミルドレは、……いない。やられてしまったか。
キヴァン部隊の活躍で、エノ軍の進撃速度が落ちた直後、西門と東門で火の手が上がった。市民自警団が消火に回るが、両門外側に各百名程度のエノ傭兵が押し寄せる。そこに人員を回した途端、今度は北門に総攻撃がかかった。
ありえない速さ、早さである。
騎馬隊が押し寄せたのではない。馬を後方に並べて残したまま、エノ軍は全員が歩兵となって湿地帯を通過したのだ。
あっと言う間に第四壁が突破され、北門市外壁が打ち壊される。騎士たちは市内壁を背に、エノ軍と対決する羽目になった。ここで騎乗はできない、お互い地上に立っての混戦である。
「ふんッッッ」
目の前にいる中年の騎士が、草色外套の背を大きく折った。
その広い背中にばすりと、いびつな刃先が突き出る。
――これまでだな。
ミルドレに伴われて出陣した時、気勢を上げはしたものの、内心では怖気づいていた。しかし自分が行かなければ、老年代の宗主どもは王の付き添いを理由に、戦闘を避けてどこぞへ姿をくらましかねない。
シャノンなら行くよな、自分にそう言い聞かせて市内壁へ出た。
そしていきなりの投擲に遭い、左目がつぶれた。
動揺しているうちに、今度は右腕に矢が立った。
ウルリヒは呆然とした。生まれてこのかた、誰もがウルリヒを傷つけまいと努力してきたのを知っている。それなのに、王であるこの身体はいまや蛮族の手にかかって、いとも簡単に壊されてゆく。
だが今、不思議とウルリヒの心は平らかだった。
左眼から右半身から、耐えがたい痛みが激流となって彼を苛んでいるにも関わらず、ウルリヒはそこを動こうとは思わない。
逃げもしない、隠れもしない。
前を向き続ける。
背にした市内壁は、かたく揺るがない。この後ろにテルポシエがある、エリンがいる、シャノンがいる。
ウルリヒは大きく息を吸う。
「全員、聞けぇぇぇぇぇッッ」
戦闘の喧騒はそれですぐに止むわけはないが、ウルリヒは叫び続けた。
「エノぉぉぉッ、どこだエノぉッ。
俺はテルポシエ王、ウルリヒだっっ。出てこい、エノぉぉっ」
そしてついに、場が静まった。
ゆっくりとしゃがんで右肩の騎士の亡骸を地に下ろしてから、ウルリヒは槍をついて歩き出す。
荒く息をついている騎士らが、じゃりじゃりと武具の音をさせながら左右に動き、道をつくる。
ほんの少しの空間を隔てた所に、中年の男が立っていた。
この男も、戦闘に参加していたのだろう。両手持ちの長剣は血に濡れて、曙の淡い光のもとに赤く輝いている。
毛皮をあしらった黒い毛織外套、引き締まった顔にまとめられた長い髪、ほぼ全身に血飛沫がかかっている。
しかしそれは、彼の傷から出た血ではない。テルポシエ騎士の流した返り血である。
男はウルリヒをみとめると、目尻にしわを作って笑いかけた。
「やあ。ウルリヒ」
「よう。くそじじい」
ウルリヒも、エノに笑い返す。
挑発をこめた笑顔は、子どもの頃から練習している。
「私は悪人じゃないよ。ここで素直に差し出せば、テルポシエは大切に扱う。市民と、女子供の身の安全も保障しよう」
よく通る、良い声だった。
親しみのこもったのどかな調子で、エノはウルリヒに向かって投降勧告を始める。
「何だったら、ここの騎士どもも殺処分せずに、身代金対応しようじゃないかね」
「誰が信じるか、そんな話。あんた、敵も身内もだましまくってるって評判だぜ? 古狐かよ」
ウルリヒは挑発笑をやめない。
心のうちに、それを支える三つの手を感じていた。
シャノンとエリンと、友のと。
だから声も身体も、震えはしなかった。
古狐、のところでエノはぷっと噴き出す。
「嫌だなあ、皆そんなこと言ってんの? 人聞きの悪い」
そこでひょいと後ろを向いて、呼びつけた。
「アキルぅー」
傭兵達がすいっと左右にどいて、銀髪に色みの濃い肌、キヴァン的風貌の老人があらわれた。
「これ、うちの理術士のアキル。君も知ってるだろ、言呪戒をかけよう」
「さーな。うちの騎士らとそちら皆さん、全員がよーーく分かるよう、でっかい声で説明してくれ」
言呪戒が何なのか、ウルリヒはもちろん知っている。
けれど、全てをできるだけ公にする形でおさめたかった。
「だってさ? ほんじゃどうぞ、アキル」
「……はい。約束事が滞りなく遂行されるよう、当事者たちにかけられる術です。交わした約が守られなかった場合、反故にしたものは命を失う」
アキルの手にした杖が白く輝いた。
「皆、聞いたなッッ」
テルポシエを背負ったまま、しかし振り返ることなくウルリヒは怒鳴った。
どよりとした賛同の声が、力なく背後から届く。
「ではエノ軍総統よ。約を守れ。テルポシエを、俺の国を、その全ての民を、傷付けることなく統治しろッ」
歯を食いしばって唇をかたく引き結び、全霊の憎悪をこめて、ウルリヒはエノを睨んだ。
笑いじわを消して、冷たい瞳でエノが見つめ返す。
「君との約束は守る。本当だ」
アキルの杖がひときわ強く輝いた後に、元に戻る。
言呪戒はかけられた。
「だからとりあえず、担保はもらっておくよ」
誰の目にも留まらない速さで、エノは長剣を一閃、二閃した。
真紅の血を噴いて、右目を見開いたまま、前を向いたままのウルリヒの首が宙を跳ぶ。
「ウルリヒ王。君の、命だ」
ぼたり、と転がったものを左手で鷲掴みに拾うと、エノはうなだれた騎士らに向けて、それを高く掲げた。
うおおおおお、歓喜の叫びがエノの背後でうねる。
ついっと人差し指を上げて、エノはそれを静かにさせる。笑顔で傭兵達を振り返った。
「と言うわけで皆。この門の向こう側、テルポシエ市内に入ったら、行儀よくするんだぞ? 市民の皆さんや、女子どもを殺してはいけない。物品は後できっちり配分するんだから、とりあえずの必要分以上を分捕ってもだめだぞ」
ぶうーーーーー。
不満の声がうねる。
「……ま、手酷く抵抗されて殺されかけたら、それはもう自分の身を守らなきゃいかんけどー」
誰もが意味をとりかねて、沈黙した。
「貴殿……。さっそく王との約を、反故にされるのか」
うずくまっていた矢羽根だらけの老騎士が立ち上がり、エノに向かってずるずると歩み寄りながら、ふるふると指を突き付ける。
「理術の罰を受けろ! お前こそ、死んでしまえッ」
「うるさいよ」
次の瞬間、その老騎士の頭も宙を跳んでいた。
大きく旋回させた長剣をぴたりと騎士らに差し向けて、冷たく笑んだままエノは叫んだ。
「殺せ」
それで堰を切ったように、傭兵達が瀕死の騎士達に群がって行った。
あまりの喧騒に、断末魔さえかき消される。
後から後から押し寄せる、狂乱の傭兵達にぶつからないよう、アキルはエノのすぐ後ろに身を寄せた。
「あんまり早速に術をないがしろにしては、権威が薄れます」
エノのうなじに向かって、ぼそりと苦情を述べた。
少しだけ振り返ったエノの横顔、瞳が悪戯っぽく輝いている。中年のくせに。
「別にいいじゃん、ウルリヒはあれで納得して逝ったんだしさ? なあ」
最後の“なあ”は左手に提げたもの、ぼたぼた血を滴らせている元テルポシエ王に向かって呟かれた。
――約を交わした当事者の片方が落命した場合、言呪戒そのものは無効になる。
イリー王族の間では比較的知られた理術のひとつなのに、この部分がしょっちゅう見落とされてしまうのは一体どうしてなのだろう……。アキルは首を捻った。
・ ・ ・ ・ ・
かくしてイリー暦188年、都市国家テルポシエはエノの手中に落ちた。
第十三代元首ウルリヒの遺体は、長くにわたって市内を見つめてきたイリー守護神・黒羽の女神像とともに、公衆の面前で燃やされたと言う。
以降十二年間、テルポシエ市内に黒羽の象徴旗がはためく事はなかった。
戦略上最大の焦点であった、シエ湾の潮流異常が実際に起こったのかどうかなど、未だ人々の統一した見解を得られずにいる点は多々ある。
ただ事実として、海路側の奇襲に向けて待機していたテルポシエ騎士第九団の百余名は、市内になだれこんだエノ軍に捕らえられてはじめて、元首の死を知ったとされている。
エノの行動が勢力分断を狙った狂言であったとするなら、一連の不可解な挙動は、全て彼の巧みな演出であったと言えよう。
堅牢な防御線と騎士団の戦力を誇り、陥落不可能とされたイリー“東の雄”テルポシエの敗北は、貴族政を基盤とするイリー都市国家群にエノ軍の脅威を知らしめる結果となった。
テルポシエの崩壊後、オーラン以西のイリー諸国の結束はここに強まり、“蛮軍”エノへの対抗戦線が敷かれる事となる。
混沌の中、やがて内部の世代交代を経たエノ軍は、定住支配者としてこの地に根付き始める。
テルポシエを拠点に、彼らは周辺地域への圧力を強めていくのであった。
・ ・ ・ ・ ・
この一日で数多の魂がその身体を、生を離れて旅立って行った。
草色外套、枯草外套、墨染衣、銀髪と濃色肌……。
おぼろげに不可視化したかれらの姿は陽の光を透き通し、次第にとけて消えてゆく。
長いこと、色彩のない枯草の原に立ち尽くしていたあるひとつの魂は、やがて観念したかのように頭を振る。
――過去も未来も救えなかったけどな。最後に現在だけは、守れたのかもしれない。
泣き笑いの表情を浮かべ、その黒ずくめの男は潮風に導かれて海へ、水平線に向かって歩み出す。
歩きながら徐々に風に存在を溶かし、さいごに影のように薄くなった寂しげな墨色が消えて、とうとう無へと帰った。