04 ユカナの略奪4:母との離別
無我夢中で走り抜けた先。イオナの眼前には再び、高台の草地が広がっていた。
ヴィヒルもアランも、どこへ行けば安全なのかさっぱりわからなかったし、とにかく森から出てしまいたくて走った結果、あの浜生菜の茂る場所に戻っていた。
全速力から少し落として、きれぎれな息をつぎながら、アランは語った。
「あたし、水を汲んでたの。そしたら母さんにいきなり、泉の裏にある茂みの中へ突き飛ばされた」
そいつらの襲撃は、あまりに突然だったと言う。変な音、知らない声が海の方から聞こえてくると思ってはいたが、こんな怖いものが来るなんて、アランには全く想像できなかった。
アランの母は娘を逃がしたが、自分の身を隠すことはできなかった。
見おぼえのない大柄な男達が、のしのしと歩いて来た。村の女性たちを手当たりしだい平手打ちにし、両手を荒縄で括って、まるで家畜のように引っ張って行った。もちろん、彼女の母親も。
アランはとにかく、集落の後ろから広がる森の奥へ逃げ込もうと必死だった。男達に見つからないよう、茂みづたいに少しずつ移動する中で、アランは大切な村が壊されていくのを見た。
「あいつら、海から急に上がってきた……、漁に出ていた、おじさん達の首を持って……。村にいた男の人たちも、短剣や山刀でどんどん殺された」
そっとかえりみるヴィヒルの目には、アランの姿が別人のように見えた。
何を話すにも、常に冗談っ気を含ませるアラン。
いつも明るく朗らかな人気者、語り部一家の箱入り娘は、いま小さな顔を雲のように真っ白にして、ただ見たことを並べ立てて口にしている。
「女の人たちと、他の子たちは、広場に集められて……。それから牛も鶏もみんな一緒くたに、浜の方へ追い立てられていったの。 ごほ」
小さく咳込んでから、アランは続けた。
「家の屋根から、煙がもくもく出てた……。あいつらが、火をつけたんだと思う」
彼女の声は、手をつないで走るイオナの耳にも入ってはいた。けれどイオナの頭はもう、しびれたようになってしまっていて、ぼんやりとも意味をつかむことができない。
「ヴィーとイオナんとこの、おじさんの首も見たよ……。髪の長い男が、手に提げて持ってた」
そこでふっと、イオナはようやく頭を上げる。
うちのおとうさんの首が、誰かの手にさげられてるって? それはどういうことだろう、とイオナは思った。
アランの横顔には、乾きかけた涙のすじが幾つもついている。
「おばさんも見た。手を縛られて、引っぱられていった」
その瞬間、急激にイオナの意識がはっきりした。
――おかあさんが? あたしのおかあさんが……連れていかれた? ……いなくなっちゃったってこと?
イオナは目を大きく開いて、そして見た。
草地の向こう、淡い春の青空の下に広がる、やわらかい紺色の海。
それが緑がかった外湾の色に変わるあたりを、あの大きな三艘の船が、さっきとは反対の方向へ進んでいる。
兄とアラン、つないだ両手を振りほどいて、イオナは崖に向かって駆け出した。
はっとしてアランが叫ぶ。
「イオナっ!」
――だめ、だめだめだめ、行かせちゃだめだ!
イオナは海に、船に向かって両手を伸ばす。
「おかあさぁぁぁぁぁん!!」
イオナには見えていた。最後尾を進むその船の中に……。
「ごめんなさぁぁぁぁい、 イオナがわるかったの―――! おかあさぁぁぁん」
赫い髪をはためかせている母が、確かにいた。疲れ切って、涙によごれて、おびえている、哀しげな悲しげな母。
「うわあああああああ」
後ろからお腹を抱きとめられて、ようやくイオナは立ち止まった。
兄も震えていた。
追いついたアランに頭を抱え込まれ、イオナはとうとうくずおれる。アランの胸に取りすがって、大声で泣きわめいた。
「もう、悪いことばは使いません……、絶対ぜったい、つかいません……!」
自分のせいだ。
朝、母に向かってあんな言葉を投げつけたせいで、それが本当になってしまった。家も村も全てがなくなり、かわいそうな母はどこかへ行ってしまうのだ。
自分のことば、自分のせいで。
「ごめんなさい……、ごめんなさい……。おねがいだよ、イオナのところにいてよう! おかあさぁぁぁん」
アランとともに、激しく泣きじゃくる妹を抱えたまま、ヴィヒルは海上へと視線を投げる。彼らの優しい世界を滅ぼして立ち去ろうとする三艘のまがまがしい船を、少年は強く見つめた。
ヴィヒルの眉間から流れた血は、肌の上で乾いて赤いすじになっていたが、それが新たに涙とまじり合って融け、頬を伝う。およそ憎しみというものを知らなかった少年の魂がいま、声を伴わない呪詛を紡ぎ出す。
船は点になり、やがて水平線のかなたへ消え失せた。
柔らかい春の陽光に照らされて、午後の内湾は静まり返る。手前に見えている黒焦げの燃えかす、かれらの家であり集落だったものから、細い煙がくすぶり出てたなびいていた。
返り血でひどく汚れた妹の手を、そして冷え切って震えているアランの手をとって強く握りしめると、ヴィヒルはゆっくり立ち上がった。
そして三人の子らは歩き出す。
体じゅうからあふれ出す、かなしみと恐怖と嗚咽とを、ようやくの思いで押しとどめながら。