36 テルポシエ陥落戦16:アランとヴィヒル
その運命に手酷く扱われてきたにも関わらず、ヴィヒルは自分が不運だと思ったことは、まるでなかった。
集落が滅ぼされた時に一人きりで残されたなら、それは間違いなく不幸だっただろう。けれど彼には妹と、当時からずっと崇拝していたアランがいた。
その後の旅で何遍も危険な目に遭ったし、特にアランが病で死にかけた時は、本当にこの世が終わってしまうのかと思った。しかしとんでもない偶然のおかげで、ここまで一緒に生きることができているのだ。
≪……今だってそうだ。アランはまだ生きている、俺はまだ歩ける。馬は……あー、どこかへ逃げてしまったけど……≫
その独白を感じ取ったのだろう。左肩に担ぎ上げた小さな妻が、途切れ途切れに呟いた。
「もう……いいよ、ヴィー。このまま歩き続けたら……血が……出すぎ……」
≪俺は大丈夫だよ。アランこそ、喋るな≫
「……お願いよう、ヴィー……もう……」
ぼんやり薄らぐアランの視界に、ヴィヒルが背後に残して来た跡がうつる。
右手の戦闘棒を杖がわりにして、ヴィヒルが波打ち際を引きずって来た足跡には、ところどころ血のしみが混じっていた。
それはヴィヒルの血なのか、アランのものなのか、……たぶん両方なのだ。
「歩かないでぇ……」
はっは、と苦しそうに息を継ぎながら、ヴィヒルは答える。
≪アランの夢は、まだ叶ってないじゃないか。叶えよう。叶えるんだよ≫
・ ・ ・ ・ ・
東の空がほの白く明るみ、夜明けが訪れた時、ヴィヒルは浜を横断して、海と風雨に浸食されつつある崖地の始まりに到達していた。
入り組んだ岩地のあいまには、一時しのぎに向きそうな窪みが多い。奥歯を食いしばって荒く息をつきながら、ヴィヒルはそのひとつを選び、奥まったところへアランを横たえる。
背中の傷を見ようと服を脱がせかける。お気に入りの青色外套は、左身頃が血に染まってしまっていた。器用で通っているヴィヒルなのに、今はなぜか右腕がまともに動かない。彼自身、右半身の血を失い過ぎていたのだが、痛みは既に通り越して何も感じていなかった。それよりも、アランを失うことだけがひたすら恐ろしかったのだ。
血にまみれた指を自分の外套に擦り付けてきれいにしてから、ヴィヒルはついっとアランの頬を触った。感覚が薄れてゆく中で、彼女の肌にふれた指先だけに、いつも通りの温かさが宿る。
潤む双眸いっぱいにヴィヒルの顔を映しながら、アランもまたヴィヒルの顎、こわめのひげを群生させてある辺りに指で触れた。
――ことばがないぶん、あなたのてのひらは、いとしいくらいの真実で、……
初めて頬に触れられたのは、いくつの時だったろうかとアランは記憶をたぐる。
照れくさそうに、でも精いっぱいの真心をこめて手を伸ばして来たいがぐり頭の少年は、自分よりまだ背が低かったはずだ。
眉間の傷は、既にあったのだっけ。
――あたしのヴィー、最惜しいひと、だいじな男。
アランの瞳から、涙がすういと一筋流れ、ヴィヒルの親指に当たってにじんだ。
「ヴィー」
顎先に触れていた指がするりと落ちて、アランは目を閉じた。
――どうしよう、どうしよう、どうしよう……あの子が、ひとりになってしまう……。
虚無に引き込まれてゆく中で、アランは最後にイオナを想う。
動かなくなったその身体を両腕いっぱいに抱き締めて、ヴィヒルは声をあげることなく慟哭する。
しかし血を失い過ぎた彼自身もまた、大いなる深い闇の中へと、気づかぬままに落ちていった。




