03 ユカナの略奪3:鎌
浜とは反対側、集落の北側に広がる森の小径を、兄妹は進んでいく。
秋から冬にかけて狩り場になる、深い方の森ではなくて、村人がまめに手を入れている浅い森の方だ。今は春だから目立ったものはないけれど、もう少しすれば野生の果実や草を摘む人々の姿を、あちこちに見かけるようになるだろう。でもこの朝はひんやり静まりかえったままで、ぺたぺた、さわさわ、地を踏みしだく自分たちの足音だけが耳についた。
兄はあからさまに焦っていて、普段よりずっと早足になっている。はしっこさに自信のあるイオナだけれど、本気のヴィヒルについていくのには、さすがに息が切れる。兄をいらいらさせたくなくて、一生懸命に進んではいるものの、やっぱり弱音が口をついて出てしまった。
「急いで帰っても、どうせおかあさん、許してくれないよう……」
突然、兄が立ち止まる。
振り返りざまイオナを抱きかかえて、手のひらでふわりと口元をふさいだ。静かにして、の合図はこれが初めてではないのだけれど、それでもやっぱりイオナは驚いた。
凍りついたようになっている兄を見上げ、その視線の先をたぐっていく。ほんの二十歩ほど離れた樫の大樹の根元に、誰か大人がしゃがみ込んでいるのが見えた。
「ありゃあ、何だ。餓鬼んちょかあー」
間の抜けたような変な言い方で、その男の人は声を上げる。何かに、がっかりしたような感じだった。
よく見ると、その人は樹の根もとに、誰か別の人を押さえつけている。男性のかげからちらちらと覗くその人物の髪が、イオナの目をとらえた。
――あれは……!
「んん、でもお嬢ちゃん、珍しい髪色してんな。 こりゃ高く売れるかもしんねぇ」
前屈みになった男の右手には、村人が山仕事で使うなたのように幅広い刃、けれど寸詰まりの短い剣が握られていて、それがアランの顔につきつけられている。
少女は樫の幹に背中を強く押し付けられ、それでも絡め取られた両手両足を突っ張って、必死に男にたてついていた。
友人の顔が、涙でくちゃくちゃになっているのを見て、イオナの全身がかあっと熱くなる。
「おじさん、だれっ!?」
兄の手を口元からもぎ放って、絶叫した。
「アランをはなせっ!」
もじゃもじゃ頭がふいと揺らいで、こちらを見る。
見たことのないその男が、訝し気に何かを言おうと口を開きかけた瞬間、ヴィヒルがそいつの背中に飛びかかった。
「がっ」
外出時にいつも肩掛けしている空の麻袋を、男の頭にかぶせたのだ。
アランの泣き顔を見ていたイオナも、ためらわなかった。見知らぬこの男は、絶対悪いやつに違いない。兄が、袋の口ひもをぎゅううっと強く引いている間、全速力でアランの側に走り寄って、その手を取り、引っぱった。
「アラン、こっち! 早く逃げようっ」
「イオナ!?」
「何だあ、てめえらはッッ」
視界を塞がれた男は、袋の中からけたたましく叫ぶ。
「まぁだ、生き残ってる奴らがいたかッッ」
立ち上がりざま荒々しく両腕を振り回し、その左肘ががつりと背後のヴィヒルに当たって、少年はよろける。
そしてヴィヒルの両眼のあいだを、ふうっと風が吹きぬけた。
≪!!!≫
男がめちゃくちゃに振り回した短剣の切先が、眉間を裂いたのである。
声をたてずに、ヴィヒルは悲鳴をあげてうずくまった。勢いよく鮮血がほとばしって、瞬く間に額を濡らす。紅い濁流は鼻の両脇をくだり、口元へ、あごへと伝う。
「ヴィーっっ」
アランの甲高い声が自分のあだ名を呼ぶのを聞いて、ヴィヒルはかろうじて我を失わないよう、踏みとどまる。
歯を食いしばって、額を押さえる両手の指の間から、男をにらみつけた。
「餓鬼か」
男は既に、袋を引き剥がしてしまっていた。
広刃の短剣を恐ろしげにぶんぶんと空振りさせながら、ヴィヒルに向き直る。
「ぶっ殺してやるッ」
男の腰に、アランがしがみついた。
「だめ! やめてっ」
「どけ、邪魔だッ」
さっきアランを助け起こした後、真っ先に逃げようとしていたイオナは、樫の木の根もとから一番遠い所にいた。
兄の血を見て、もう頭の中が真っ白になってしまっていた。目の前で起こっている光景が、怖くて怖くてたまらない。身体に力が入らない、がちがち歯の根が震えるのを止められない。
――にいちゃん死んじゃったらどうしよう、どうしよう、どう……。
「イオナぁっ」
男の腰に組み付いたまま、アランが叫んだ。
「ヴィーを連れて! 逃げて、早くっ。 イオナぁぁ!!」
そこでふいっと、足元にぶどうづるの籠があるのに気付いた。
兄が背負っていた籠、中にはいっぱい浜生菜の葉と、…。
どっっっ。
アランを左手でようやくはがしかけ、右手の短剣をヴィヒルめがけて高く振り上げていた男の右脇腹に、草刈り鎌の一撃はごくすんなりとおさまった。
イオナは何も考えなかった。ただ手にしたもので、自分の届きうる一番高い所を思いっ切り強く打った、それだけだった。
ところが、鎌はたまたま、腸という人体の急所に当たったのである。
「……え?」
男はぴたりと静止して、瞬時ぽかんと口を開けた。
が、すぐ目の前にいる幼女の凶器が、自分のどて腹を貫いているという事実を知って、やがて慌てた。
「うわ、うわ、わああああ」
突然眼前に垂れ下がった、気持ち悪い芋虫を払いのけるが如く、男は短剣を持った右手の肘で、イオナの頭を強く突いた。
けれどイオナは両手で、全身全霊の力を込めて鎌の柄を握りしめて、放さずにいた。だから突き飛ばされた反動で、刃先に引っかかっていた男の臓物が、勢い良く外に飛び出してしまった。
「ぎゃああああああああ」
自分で自分の腹を裂いてしまった男は、盛大に上がる血しぶきを抱え込むようにして、前屈みにうずくまった。
その赫毛よりもずっとずっと赤い血で、顔半分と筒っぽ服をべっとり汚したイオナは、もう声も上げられない。
いつのまに鎌を手放したのか、わなわなと震える両手のひらを、兄とアランとが片方ずつ握って、三人はようやくその場を逃げ出した。