254 東の丘の最終決戦40:騎士の帰郷
とっとっとっ、扉の呼び具の叩かれる音がする。
「何だ、配達かな……? 俺が出よ」
するっと立って、ナイアルは長い廊下をゆく。
すたた、後ろで音がする。なぜかビセンテがぐいぐいついて来ていた。
「?」
ナイアルは扉を開けた。
「はいー、……」
そして言葉を失った。
絶対知ってるはずなのに、それが誰なのかとっさに認識できないふたり。金髪と赫毛の中間色が段々になったちりちり髪の若い男が、草色外套でのほほんと笑っている。
その横で、乳白の肌に漆黒の髪、あきらかにイリー人でない妙齢の美女が頬っぺたをまっかにして、はち切れんばかりの笑顔で立っている。
「こーんにーちはー!!」
男女の重唱が朗らかにナイアルを席巻した。
「ナイアル君ッッ」
女は彼の名をやすやすと呼んだ。
「ビセンテッッ」
かたまった副長の後ろで牙を……犬歯むき出しの笑顔を浮かべている獣人を呼んだ!
「ああッ、大将!」
ふっと後ろに現れたダンにも呼びかけた。
「ぎぃああああああ――ッッッ、ミルドレさ――んッッッ」
ものすごい勢いで廊下をかけ抜けてきた料理人は、
がし――ん!!
騎士の胸に両腕を回して、抱きしめた!
「いらっっっしゃあああい!!」
「そうよッ、来たのよ! アンリ君ッ」
焼きたてぱん顔を最高潮にまっかにして、感涙寸前の料理人に、女はさっと黄色い花束を差し出した。小さな太陽のような、ひまわりぎっしりの束!
ナイアルはそれを見、ついで女の頭のてっぺんにもわんさかひまわりが“咲いて”るのを見て、――それではッッと我に返る。
「いらっっしゃいましッッ」
・ ・ ・ ・ ・
「いやー、外側はそのまんまですけど。内側だけ見たら別のお宅かなって思っちゃいますね、ぴかぴかに新しくなって!」
「すてきだわー、壁と窓布は元気の出る黄色なのね。暖炉も梁も燭台も、昔の調度は磨きにみがいてなんて調和っぷり、大将には家のお直しもお任せなんだわ、すごいわぁ」
「そこ、塗りたてなのでお気を付けください」
自分の作品をほめ倒されて実は気を良くしている、ダンは口角を上げて、露壇に立つ女に言った。
「庭の木の剪定もして下さったんですね! けっこういっぱい、植わってたんだなあ……。ああ、井戸もきれいになっている」
「ビセンテ! あの林檎の樹ね、金月においしい赤い実をいっぱいつけるのよ。ばきばきしゃりしゃり噛みごたえ十分のりんごよ、貯蔵きくから地下室いっぱいにしてね」
「奥さまも、こちらご一緒にお住まいだったんですか?」
「ぎゃあっ、奥さまだなんてッッ」
女は不思議な姿勢でナイアルの方を向いた。
「……はっ、(そうか羽ないんだったわ、突込みびんたできなーい……)ええ、そうなの……。と言うかあなたとも、このお庭で会ったじゃなーい?」
「えー、はあ……はい……?」
――えーとちょっと待て、そんじゃやはりこの人は、ミルーさんと一緒に出てきたあの姉ちゃんと同一人物なのか? 冗談よな、いったい幾つだ? どう見たってお姫くらいにしか見えんのだが……??
自分のアルティオ出張中に起こった、山中ブロール街道での子狩り業者との対峙の話は、アンリ達から詳しく聞いていた。
ウルリヒと一緒にいたあの騎士、“ミルーさん”の孫という人物は、実は東の丘の戦いでも自分達に加勢してくれていたらしい。
しっかり対面して話すのは今回初めてのはずなのに、ナイアルはそういう気がしなかった、……自分はこの男を、となりの女を知っていると思った。
自分より若いこの“ミルドレさん”は、話し方も笑い方もまんま同じ、あの老騎士のおじさんに年を食わせていないだけ、としか見えない。
しかし、ナイアルはこれを怪現象とは思わなかった。
“紅てがら”で朝めしを食べる時、リリエルと姉と母が並んでいるのを卓の反対側に見ているのである。他の人が見れば、同じ女性の未来と現在と過去が同時に並んでいるような超常現象であろうが、こういう風景に慣れっこであれば、おやこ間での異様な相似なんて何でもない。さらに自分の顔もその延長にあるとなれば、はぁ爺さんそっくり孫で隔世ってやつ、としか思わない。
「こんなにすばらしいお宅を使わせていただいて、もう本当に何てお礼を言ったらよいのか」
両のこぶしを握りしめて、アンリがミルドレを見上げる。
「ああっ、いえいえいえ。私こそ、……えー、祖父と父から譲られたものの、持て余すだけでしたから。私は各地を放浪するばかりでテルポシエに戻ろうと思ったことはありませんし、皆さんに使っていただいた方が家と、……林檎の樹にとってもいいと、思うんですね」
「ええ……」
「それと私、今後しばらく遠方で勉強することになりまして。とうぶんこちらに戻る予定もありませんから、もう存分に利用してみて下さい、ね」
「ありがとうございます……」
家賃すらいいからと言われて、もうアンリとナイアルは頭が上がらない。
「お昼を、どうぞ召し上がって行って下さい。開店前なのでまかない料理ですが、超絶気合いれて作ります!」
「ああ~、そういうのがおいしいんですよねえ」
・ ・ ・ ・ ・
「ところで今日は、あのお若い“秘蔵っ子さん”が見当たりませんね……?」
「あ、イスタはこっちに住んでないんです。世話になってた、シエ半島のお婆ちゃんの養子になりましたもんで」
イスタ自身が望んだことである。岬の集落で地元食材を集め、毎日馬車で配達してくれる手はずを整えた。駅馬業者としても、怒涛のミサキの後継者になるのだそうだ。
「旬に合わせて、他の近郊農家さんからも買い付けるつもりなのですが。あの岬の集落でとれる玉ねぎは、爆うまなのです!」
じゃかじゃかティー・ハルをさばきながら、アンリが言う。
「ひゃあっ、またしても平鍋の中身が、空中で五回転半したわッッ。毎回こうなの!? ビセンテッ」
台所の大卓、女の横で十八個分の卵の殻を手のひら粉砕しながら、獣人はうなづいた。相変わらず疾走感あふれる台所風景に、女は震撼した!
「あと、今ちょうど外してるんですが、雇われ女将のエリンというのがいます」
「……もと女王の?」
「ええ、店長以下むさいのばっかりじゃあ、お客さんも入りにくいでしょ? はんなりした司令塔が欲しかったんで」
「エリンちゃんが……(ああ、だからここにいたんだ……)。ねえナイアル君、あなた達って、あの子のために戦っていたの?」
「いえいえ」
ナイアルは軽く頭と手を振った。
「俺たち皆、同じもののために戦いました。……お姫は、俺らの戦友です」
何でもないように言われて、ミルドレと女は少し首を傾げた。
隣のビセンテに、女の頭のひまわりが近づく。花の香りにずいぶん紛れてはいるけれど、女の身体から確かにエリンの匂いがするのが不思議だった。しかし、“羽ばばあ”は常にふしぎだから仕方ねぇ、と彼は何も言わずにたまご粉製作に精を出していた。
・ ・ ・ ・ ・
ちょっと失礼、するりと女は台所を出て、居間の隅で円卓に草色外套を広げているダンの邪魔をしないよう、手洗に向かう。
途中、踊り場の窓から林檎の樹に祝福をした。
「わたしとミルドレのそもそもの始まりから、あなたは関わって、見守ってくれていたのだったわ。……他の人たちをおどかして、この家を護っていてくれたのね?」
梢がざわめいた。
「ふふ、ありがとう。あなたは確かに、この屋敷のぬしなのね。ナイアル君たち“第十三”の皆も、ぜひ見守ってあげて。また会いましょう」
微笑して、小部屋に入る。壁にかけられた丸い古い鏡に、顔と頭を映して、ひまわりの花の中から慎重に慎重に、貴石のついたかんざしを引き抜いて両手に持った。
「あんな怖いことを言ってしまって、本当にごめんなさい」
手のひらの上、かんざしにはめられた海水晶と黒水晶、白水晶は押し黙っていた。
「あなた達にかけた呪いは、とりさげます。わたしがまちがっていました……ゆるしてください」
水晶達はひそやかに、安堵の溜息をもらした。
「長い道のりだったけど、わたし、今エリンちゃんの幸せを心から願っているわ。あなた達もどうか、彼女のことを見守ってあげてね」
優しく同意を示した水晶達に祝福を与えてから、女は再び慎重に、かんざしをひまわりの裏側、結髪の中に差し込む。そうして軽やかに、階段をくだった。
・ ・ ・ ・ ・
「あああああ、卵とじよ! ミルドレ、アンリ君の玉ねぎ卵とじを、この台所でまた食べられる日が来るなんて! わたし幸せ!」
「いやー、もう本当の本当にね、最強ですね! 何度たべても、私はこれがいっとういいですねー。お店でも、出すのでしょう?」
「てへっ、そうですね! 主体は鍋もの二種を日替わりで出すつもりなんですが、これはご注文受けてから作ろうと思います!」
――あれれ、この人たちに卵とじを作るのは、初めてだったはずなんだけーどなー?
小さな疑問が脳裏をかすめたが、喜んでもらえるのならそんなのどうでも良い料理人である。
――それとこの奥さん、ブロール街道の戦いの時にみたミルドレさんの助っ人と同じ人にみえるけど……。あの時はかた太りで偏食の相が出てたし、もっと年いってた気がする……痩せたのかしらん? まーいっか、今こんなにすてきな食べっぷりなんだもの! んーと、魚介と甘いもの好きの相だな、お姫さまとよく似た傾向あり……。うん、ミルドレさんは正しかった! ぶっちぎりの超絶美人だ!
アンリの審美観は、食べっぷりできまるのである。
「鍋ものですかー。色々な煮込みは、テルポシエ家庭料理の定番ですしね」
「あとは宣伝も兼ねて、夏の市に屋台出したり、色んな所に仕出しもする予定です」
「屋台! 仕出し! お弁当ッ!?」
ナイアルの言葉にミルドレと女はときめいて、小指を曲げた左手を顔の前にかざした!
副長もにやりと笑う。そう……これまで諜報活動として屋台兄ちゃんや歩き売りに扮してきた経験を、活かすつもり満々なのである!
「実は、お姫さまを通してお城の料理長からすでに打診がきているのですッ。時たま、純テルポシエ風の鍋仕出しをして欲しいと……」
「えっ、エノ傭兵がテルポシエのお鍋をたべるの?」
「ほら、旧・第九団の“緑の騎士”たちが帰ってきたでしょう? あの人たちが懐かしがって食べるようなのを、出してやりたいって言うんですよ。あの料理長は、ほんとに良い人です……」
「ああ、なるほど! いわゆる騎士食堂での定番ですね!」
「えっ、ミルドレさんご存じなんですか? 俺は旧体制下のときお城の中に入ったこともありませんし、全然わかんないんですよ」
「どんなのでしたかね、うーんと……」
「ミルドレッ、ほら、おじいちゃまから聞いた話なのよね、そうよねっ」
「はっ、そうです。ええと、祖父によれば一番人気だったのは豚豆煮だそうで」
ぎいーん!!
アンリの顔の描写が、瞬時にして毛筆づかいのように変わった! べた塗り背景の中に一閃、目元がしろく光を放つッ!
「豚の塩漬けを細かくしたのを……白いんげん豆と、つぶした赤宝実と一緒に煮たものです。あれはおいしかった……、皆おかわりしてましたね」
騎士の蒼い目が、とろーんと宙を……過去をさまよう。
「白いんげんッッ……! ミルドレさん、他にはッ!?」
がしがしがし、手元の白ふきんに硬筆で書きつけながら、アンリは濃ゆさ三倍増しの漢の顔で、聞き取りを続ける!
墨の代わりに魚醤使うなよ、あとで臭くなるぞと思いつつ、ダンは玉ねぎを噛んでいる。
・ ・ ・ ・ ・
食後のタエはナイアルが淹れた。
「これを扱ってるのは、今んとこうちの乾物屋“紅てがら”だけです。他の花湯香湯も各種取り揃えて女将に淹れてもらうんですが、当たりゃ良いなと思ってます」
数か月おきのキヴァン領行きを、ナイアルは続行するつもりだった。メインはキヴァン傭兵を正規雇用したいと考えているし、スカディがそのへん補佐する気でいる。そういう人の流れにのっかって、タエ輸入業を太く育てて行きたいナイアルだった。
「おちゃ……おいしいわぁ、なつかしい……」
小さく呟いてから、女はナイアルに問う。
「でもナイアル君が出張しちゃったら、お客対応エリンちゃんだけで大丈夫?」
「うちの姪か、母が代役で来ます」
そう、おんなし顔が入れ替わるだけなのだ……ダンは思った。ビセンテは、ナイアル姉がにぼし持参で来るのが理想的だと考えつつ、干しいちじくを咀嚼している。
「甘味はご実家頼りで、安心ですね」
「ふふふふふ、実はまた別に、蜜煮屋のとんでもなくうまいのと、提携する予定がありまして」
命の恩人だろうが何だろうが、商売がら使えそうなのは、ばしばし起用するナイアルである。
旬の果物のない時期でも、ヴィヒルの蜜煮を地下室に常備しておけば甘党は喜ぶだろう。そうだ、勘定台の横に壺を並べておけば、気に入った客は絶対土産に買っていくぞ……くくくく、近くに来るからにゃ働け、働くのだヴィヒル! 蜜煮壺の山を築けッ。
小さな杯にタエのお代わりを注ぎながら、ナイアルもアンリも、将来への展望でにやついていた。ダンも口角を上げていた。ビセンテは咀嚼していた。ミルドレと女は、のほほんと終始笑顔である。
・ ・ ・ ・ ・
「申し訳ないのですが、黒い裏地はどうしても取り換えないといけません」
そろそろ……と腰を上げかけたミルドレ達を、ダンは上階にいざなった。
食事前に草色外套の状態を見たお直し職人(本職)であるが、今回即修繕は無理らしい。
「お預かりさせて下さい」
「そうね……、ここまでもっているのが不思議なくらいだもの。何年ものだっけ、この外套? ミルドレ」
「えーと、一級合格で拝領して……すぐあなたに会ったのだから、136年製……おや」
通されたのは、懐かしの騎士の自室である。
ずいぶん手が入って、どうやら書斎のように使われているらしい。机のまわりに書類棚が増えていた。
ダンは部屋の壁に取り付けられた、外套入れの戸をがたりと開ける。
「あっ」
布覆いのかかった、外套らしきものが七着さがっている。一番左にあったのを引き出して、ダンは覆いを取った。
「こちら、代わりにお持ち下さい」
女は、目をぱちくりさせた!
これまでミルドレが着ていたのとそっくり同じ、草色外套……。それがさっぱり新しくなったしろものが出てきたのだ。
「……これも、お祖父さまのものでしょうか」
「え、ええ……」
「だいぶ虫が食っていたので、勝手に直してしまいました……」
「ダンさん、あなた本当に……本当にすごい職人さんです。どうもありがとう、……いいのかなあ」
「こちらこそ。家を使わせていただいてますから」
ミルドレの顔が喜びで微かに上気しているのを見て、ダンは満足である。付け加えた。
「……あと、こちらなんですが」
右端の一着を取り出し、覆いを取る。同じ草色、しかし冠婚葬祭用の騎士外套である。
一見きれいに洗われている、けれどお直し職人の指が示す先、裾部分には無数の穴ぼこが開いていた。虫食いである。
「うわ……」
「これはさすがの、大将も困るわよね」
ダンはうなづく。
「なので詰めて、婦人用外套に直してみてもよいでしょうか」
ミルドレは、ぱっと笑った。女はきょとんとした。
「なにかお好きな意匠は、ありますか」
長身の職人からぼそりと問われ、ミルドレの笑顔とを交互に見上げて、女はどきどきっとした。えっ! ええっ、わたしにってこと??
「い、いしょうって……お花とか蝶々とかの、あれ……??」
ダンはくっとうなづく。この人お姫さまと背丈体格ほとんど同じだし、簡単簡単。趣味も似通っているのかな、ずいぶん似たような麻衣と袋股引、けさのお姫さまと同じ格好だ。意匠の好みも似てるかもしれない、花とか三つ葉……。まぁどんな意匠でも導入できる俺としては、何を注文されても平気。おたまじゃくしやうみうしだって、どんと来い。
「じゃあ、じゃあね……。あのね、わたし虹が大好きなの」
これは意外だった。ダンはちょっとだけ目を丸くする。
降って、照って、また降って……。一日のうちに四季がめぐる、くるくる陽気の変わるテルポシエ。虹はしょっちゅう出るものだから、皆見慣れている。あえて好きなものとして見る人は、あんまりいないのだ。
けれど、見下ろした女は頬っぺたどころか顔中まっかにして、まじめな顔で言っている。本当に真剣に、虹が好きなのだろう。それで職人の心はきらっと躍った。
「……次にいらっしゃる時までに、仕上げておきます」
・ ・ ・ ・ ・
「ミルドレさん、良かったら記帳していただけませんか」
玄関扉の近くに置かれた小卓、その上のまっさらな芳名帳を示して、ナイアルが言った。
「えーっ、でもまだ開店前ですのに……。一番のりしちゃうなんて、気が引けますよ」
「お願いしまーす。お祝いのお花までいただいちゃったんですから、ぜひー」
料理人も懇願した。騎士と女の持参したひまわり大束は、陶器の花瓶に活けられて、居間の中央円卓の上でぴかぴか輝いている。
「じゃあ、恥ずかしながら……。あの方の分も、私が書いておきます」
「ええ、奥さまの分も」
「あ……、ええとね、違うんですナイアル君」
「?」
「私はかの女のお供えで……あの方がね、私のご主人様なんです」
のほほんと、けれど少し恥ずかしげに言ってから、騎士は大きな背をかがめて書き始めた。
脇でナイアルは小首を傾げる、……お供え? わっかんねー、この辺は貴族さまの謎事情だ! あとでお姫に聞いてみっかな……。
かたわら、女はたのしげにアンリ、ビセンテ、ダンに話しかけていた。
「ごちそうさまでした、アンリ君。絶対絶対、また会いましょうね!」
「ええ! お腹すかしていらしてくださいよ」
「大将、ほんとうにありがとう。次に来る時まで……何だか、胸がどきどきしちゃうわ」
「……」
ダンは口角をあげた。むしろ彼の方こそ、新たな意匠への挑戦に胸どきしている。虹……。
「ビセンテ……。女のひとと、戦っちゃだめよ……! 元気でいてね」
羽ばばあの忠告をあらたに胸にきざみ、ビセンテは神妙にうなづいた。
「さようなら、またね!」
「皆さん、おたっしゃでー!」
まず女が玄関を出た、そして肩越しに笑顔を投げつつ騎士が扉をくぐった……。
「あ、あららららら」
その騎士の声に、見送る四人はおやっと思う。
「すみませーん、ちょっと……」
閉じかかった扉を大きく開け放つと、騎士の両腕が倒れかかった誰かを支えている。
「お、お姫ッッッ」
ナイアルは慌ててエリンを支える、玄関床に抱き下ろした。
さっとダンが近寄り、その左手をとった、……次いで耳を唇に寄せる。
後ろから、ぎーんとビセンテがのぞき込む。
「お、お姫さまぁっっ!? どうしちゃったんですっ」
アンリはうろたえて、両手を揉みしだいた。
「……寝てる、ふつうに」
ダンが平らかに言った。
「すぐそこで鉢合わせたのですが、ふうーっと寝入るようにくずおれられて……。いま季節の変わり目ですからね、お疲れなのでしょうか」
「そうだ、お姫はこれでずいぶん気ぃ回してるからなあ……。よし、このまま寝かしといてやろう」
がしーっと頑強な腕が伸びて、ビセンテがエリンを抱き上げた。
「それじゃ私は、あの方を追わなくっちゃ。皆さんごきげんよーう!」
たたたたっ! 軽やかに朗らかに、あっという間に段々を降りて路をまがる、騎士は行ってしまった。
扉の横に落ちていたエリンの緑色の肩掛けを、ナイアルは拾い上げる。
「ビセンテさん、こっちの部屋の長椅子にお姫さま降ろしましょう。隊長、長靴のひも解いてくださーい」
拾い上げた肩掛けを大きく広げてぷん、と振る。ナイアルは中へ入って、長椅子に横たわるエリンに、それをかけてくるんでやった。何だか気持ちよさそうな、のんきな寝顔である。
「ま、心配ないだろ。夕方まで寝倒すくらい疲れてんなら、俺が帰る時に城に送ってこう…ビセンテ、付き合えよ」
獣人はうなづいた。どっちみち、彼は市内で働き出した母を迎えにゆくから、通り道である。
四人はぞろぞろ、部屋を出た。
「献立表の書式、どうすっかな」
「今のうちにもう一度、包丁ぜんぶ研いどこうかしらん」
「……うめの、えだ」
午後しごとの話が始まりかける。一番後ろでダンはふと、玄関脇の小卓を見た。
ひょいと芳名帳をのぞく。ミルドレの残していった古めかしい筆致の署名がくっきり、まっさらな布帳の中に座っている。
――ミルドレ・ナ・アリエと……。
彼はその上の名前を読んだ。
――偉大なる 女神 ……モリガン、と読むのかな……。へえ、あの人そういう名前だったんだ。聞かなかったな、モリガンさん。
安心して欲しい。かの女について、ミルドレがこういう風に書いたのは、これが初めてである。
同様に、その名をミルドレ以前につかった者はおらず、この第十三遊撃隊長にして金色のひまわり亭の現店長(副業)、本業お直し職人のダンが、史上初めて見知った一般人になったのだから。




