247 東の丘の最終決戦33:ふたりの母たち
朝からの小雨があがり、青い春の空に虹が輝いていた。
照って、かげって、降って、吹いて、また照って。テルポシエの空は絶え間なく変わる、一日のうちに四季が通り過ぎるかの如く、様々な顔を見せる。
湿って重い色に変化した城塞の中心、岩づくりの城の最深部は、薄暗くって日中でも灯りが要る。
大きな燭台をででんと並べた長卓を挟んで、中広間でエリンとメインは向かい合っていた。
「お互い、元気になって良かったよね」
赤い巨人の枷から解かれ、十年ぶりに熟睡を満喫できて、メインは年相応の相貌をちょっとずつ取り戻しつつある。
「本当にね」
笑い返したエリンの左頬には、まだ傷跡が生々しい。けれど彼女はそれを隠していなかった。草色外套の襟元からは、首に巻いた晒がのぞく。
「メイン、あなたはわたしの大事な友人です。あなたの率いる現エノ軍、そして精霊たちも。それを大前提とした上で、話を聞いて下さい」
エリンの左横には、旧テルポシエ軍第九団、現“緑の騎士団”の団長と、秘書のレイが座っている。右脇には“傍らの騎士”代理のリフィが、柔和な表情で座していた。
向かい合うメインはうなづいた。右脇のパスクアとタリエクが、緊張の面持ちでこちらを見ている。左側のウーディクは、いつもと同じおもしろ顔で平常心だった。
「いくつかの条件とともに、テルポシエの主権をあなたに完全譲渡することを、女王として提案します」
・ ・ ・ ・ ・
非公式でのメインとエリンの話し合いは、長く続いた。もちろん、どちらも急いで結論を出すつもりはない。長く待つことをよく学んだ二人でもある。
三日目の午前、中広間を出るとイオナが廊下にいた。フィオナとオルウェンが後ろにいる。
二人の子ども達はイオナとリフィとスカディと、城に住み始めた。相変わらず地下に住むエリンは、あまり会わない。
「……ちょっと、話せる?」
メインを迎えに来たのではない、イオナはエリンに会いに来たのだった。
展望露台に出る。二人の子どもは長い城壁上で、精霊の球をぽーんぽーんと打って遊ぶ。時々ヌアラと弟たちが邪魔をする。
イオナと二人きりになるのは初めてだ、とエリンは思う。リフィの便りとナイアルを通して多くのことを聞いてはいたけど、実際に向き合うとやはり内心どきどきする。
緊張しているのは、イオナも同じらしい。上背のある体は、十年前よりずっと大きくなったように見えた。
ずいぶんためらってから、イオナはようやく言った。
「傷は?」
「おかげさまで。全部かさぶたになって、もう痛まないの」
ギルダフに傷つけられた後の苦しみからすると、どうしてこんなに早く治ってしまったのか、本当に不思議だった。杖を使わずに歩けるようになったし、左手首もゆっくり曲げられる。下腹も痛まない。
アンリは宣言通りに毎日通ってお粥を作ってくれたが、三日で普通の食事がたべられるようになると、今度はすました顔で鍋をこしらえた。大怪我をしたお得意様のお見舞いにと言う名目で、それからも“第十三”の面々は、しょっちゅうエリンの所に来る。
イオナは目を伏せてうなづいた。
「……メインの看病してくれたって。ありがとう」
「いえ、わたしは食べものを届けていただけで……。わたしの方こそ、あなたに何てお礼を言ったらいいのか、わからないわ。息子を、あんな丈夫な良い子に育ててもらって」
エリンは一拍おいて、呼吸のあとに言った。
「……ほんとうに、ありがとうございました。イオナさん」
イオナはじっと、エリンを見た。怒っているような、哀しんでいるような、恐れているような目にも見えた。
「わたしは、あなたにずうっと腹を立てていて」
重い口を無理やりこじ開けるようにして、イオナは低く言う。
「……」
「あなたがどうしてあの子を手放すのかわからなかったし、わかろうともしなかった。ナイアルの話も、初めのうちは聞こうともしなかった。でも、……フィオナがべらべら喋り出してから、ようやくわかってきた。その時にはもう、自分の子としか思えなくなっていて」
イオナは視線を落とし、一瞬目を閉じた。開けてからエリンを見、絞り出すように言った。
「……わたしは。フィオナからメインを取り上げた。あの子からも、あなたを取り上げてた」
十年前、当初の計画でオルウェン王子は、テルポシエ北東部にある辺境集落に隠されることになっていた。いくつかの家を転々と住み替えて、そこに時折エリンが赴くことにもなっていたのだ。
さっ、とイオナは視線を逸らす。
展望露台の縁に置かれた大きな、しなやかな手が微かに震えている。
「フィオナが言っていた。……子ども達に初めて会った時、あなたはあの子に、何て呼んだらいいのって聞いたって」
「ええ」
ローナンか、オルウェンか。そして彼自身は、どっちの名も気に入ってる、と言った。
イオナは、エリンに見上げられるのが辛かった。息子と全く同じ瞳、そっくりな面影。どう見たって実の母親だ。
そういうエリンが彼をオルウェンと初めから呼び、今までどうもありがとう、さあ返してと頼んで来たら?
ふざけないで、と自分はみっともなく逆上するのだ。その先どうなるかはわかりきっているくせに、自分から草っ原を泥沼に変えてゆく。
そうして最後、何をどうしても抗えないで終わると思っていたのに。
「……ね、イオナさん」
エリンは低く問う。
「わたしにあの子を返すのが怖くて、なかなか帰れなかったのではないですか」
イオナは目を閉じる。こみあげるものを必死にこらえて、それを開ける。
実の娘には、父のところに返せとことあるごとになじられ、柔らかく接してくれる心の拠り所の息子は、実子ではない預かりもの。母親になっても不器用なままのイオナは、こじれにこじれてがんじがらめになってしまっていた。
「メインに詳しく話を聞いたけど……本気で言っているの? あの子のこと」
「ええ、本気ですよ」
けっこう前から考えていたことだった。オルウェンを見て、イオナを見て、それで一番“まるく”おさまる方法だと確信した。あとはメインとフィオナ、……テルポシエに住む人たちが、どう受け取るか。
「わたしは、こうするのが皆さんにとっていちばん良い、と思いました。イオナさんは、どう思って?」
屈託ない言い方で問われて、イオナはようやく少し、ほんの少しだけ笑う。
「とっても、いいと思った」
「そう!」
「ありがとう、本当に」
ぎゅ、と決まり悪げな顔になる。
「……あの時、思いっきり引っぱたいちゃったこと。ごめんなさい」
ふはっ!! エリンは破顔して、イオナのもりもりな上腕をやさしく触った。




