246 東の丘の最終決戦32:メインの「おかえり」
「ああ、良かった。エリンは取り留めたようだよ」
副長とめし係中心にやかましく感涙にむせんでいる“第十三”の後ろで、パスクアの脇に座り込んだメインは安堵して言った。
「もう心配いらないよ、パスクア……おや?」
「安心して、寝ちゃったみたいだよ」
山賊ひげおじさんの様子を見守っていたフィオナが、父に言う。
「下に運び降ろすまで、冷えないように天幕で寝かしとこうか。ジェブやー、皆ー」
のそりとやってきたけもの犬は、がぶりとパスクアの首根っこをくわえた。
『パーのやつも、無事でほんとによかったぁ。良くやったわ、ヴァンカ』
パスクアの後ろ右脚をひょいとつまんで、プーカが持ち上げる。
『まんず派手な怪我と思っだげんちも、はぁ。さすげね、べした⁇』
いも虫流星号の上、パグシーはくぎ棍棒にパスクアの左足の長靴紐をひっかけた。
そのまま、精霊三体はすすすすー、とパスクアを運んでゆく。
立ち上がり、娘と手を繋いで、メインはその後ろを歩く。
天幕の後ろ側、倒れた巨石のひとつにイオナが座って、鋼爪の手入れをしている。
振り返り、石から滑り降りて立った。
「お母さん」
「イオナ」
唇をぐうっとかたく結んだまま、イオナは娘を見、――メインを見る。
じっと、じっと見る。
「……なんにも、喋らないの?」
メインが小さく、優しく言った。
「……」
きれいに編まれた横髪をさげて、イオナはうつむく。ぼそりと言った。
「……なにを、言っても。許してもらえないと思うから」
黙って遠くへ逃げたこと。フィオナを連れて行ったこと。長い間、……あんまり長い間、帰らなかったこと。メインが苦しい時に、そばにいなかったこと。
あの時は、ここまで長く帰らないとは思ってもみなかった。けれど月日が経って、次に帰った時はそのままメインにさよならを言われることになると思えた。それでますます、決心がつかなくなって先送りばかりしていた。
「……ごめんなさい」
「そうだよねー、せめてお便りくらいは欲しかったよ」
少し朗らかさを混ぜた調子で、メインは言う。
――お母さんは、便りが書けない。
内心で言いつつ、けれど口には出さず、フィオナは横のメインを見上げて、……自分もうつむいた。
読めて多少は書ける、しかし自分の気持ちをかたちにできないイオナだった。
リフィに正イリー語を習ったフィオナが何を言っても、またリフィが優しく代筆しましょうかと申し出ても、イオナは黙って首を振り続けたのだ。
「ほんと、筆不精なのは知ってた……」
けど。の語尾が消えた。ぼたぼたた、地に落ちる水滴の音にはっと驚いて、フィオナは顔を上げた。
「っってぇ、もう、いいんだよー!!」
大洪水の顔をゆがめまくったメインが、右手を伸ばしていた。
がばり、大柄な母が小さな父を上から抱きしめた。
「おかえり」
メインのくぐもった声だけが聞こえる。
「ちゃんと帰って来てくれたんだから……もう、いいんだ。おかえり、二人とも」
ううううう!!
メインは本式に泣き出す。フィオナは父と、母に貼り付いた。
その後ろから柔らかく優しく、大きく枝をのばした緑樹のヴァンカが三人を包む。
微笑む彼女の樫の葉に、ひかりんぼ達がちらちらと積もる。まるで光る果実が、すずなりになったようだった――。
・ ・ ・ ・ ・
「出血とまってんだから、おぶってきゃ良いんじゃねえのか」
「いや、お腹の内側も怪我してるんだから、あの姿勢はだめよ。がたいの良い兄貴が揃ってるし、それこそお姫様抱っこしていけば?」
「下りだから、よろけたり転んだ時がおっかねぇぞ。ビセンテなら、大丈夫かなあ……」
「……外套で、即席担架を作って……」
「蛇の親玉の棒と、ダンの長槍を支えにできるんじゃないの?」
「それなら長槍より、うちのヴィーの樫の棒使った方が、安定するんじゃない。イスタ君、あんた本当に変わんないまゆげね」
「アランちゃんこそ、全然変わんないね! ヴィヒルさんはあんまり毛深くなってて、すぐにわからなかったよ」
「蜜煮を食べすぎると、ああなってしまうのよ。あんたもお気をおつけ」
「こら魔女、冗談でもそんなこと言うな。お姫、好きなだけ蜜煮食って、しっかり養生するんだぞ」
「お姫さまー、お口の傷が治るまで、俺が責任もってゆるゆるのお粥こしらえますからね、安心して下さいようー」
彼らが丸く囲む中心には、手巾ふきんでぐるぐる巻きになったエリンが、アンリの正座膝枕で横たわっている。どうやってふもとまで降ろすか、で一同がざわざわ話し合うのから少し外れて、ビセンテは黒羽の女神と一緒にいた。
足元に転がるゴンボ君を示して、女神は言う。
『ナイアル君も言っていたけど、この子は別に悪いやつじゃないのでしょ。あなた達、馬車で来たの? それじゃあ市内まで乗せてって、安全なところで寝かしといてあげて。この子がいなかったら、エリンちゃんはたぶんだめだったのよ。丁寧に扱ってあげてね』
ビセンテは神妙にうなづく。
とととッ、軽やかな足取りが近づいてきた。
「お羽のお姉ちゃん! どうもありがとう」
『はい、どういたしまして……って、はぁッッ』
笑顔で答えかけて、女神は驚いたッッ! 背後のミルドレも、がびーんと驚いた!
頬っぺたに黒羽じるしをくっつけて笑う、エリンそっくりの少年がいる!
「お姉ちゃん、精霊?」
『いえ、黒羽の女神です』
「俺ローナン。ほんとの名前は、オルウェン・エル・シエ。いま助けてくれたの、俺のうみのおかあさんなんだ。今日会ったばっかりなんだけど」
――エリンちゃん、こどもいたのーッッ!? と言うかまったく違和感なしに、わたしを見て聞いている! ディンジーさんのお身内らしい、あの虹髪のお姉さんはまぁさておいて、さっきの山賊ひげのおじさんと言い、今日はどうなっているのかしらッ。 ……ん?
『えーと、あの……。いま、お父さんも来てるのかな?』
「うん。天幕から足だしてのびてる人らしいよ」
少年の指差す方向を見て、女神はぎゃふっとする。あれって、エリンちゃんのだんなさんだったの! ああ、だから助けてくれって必死だったのね……!
「さっき大きくなってたの、あれも女神ちゃんでしょ?」
頂上にいた第十三遊撃隊の面々は、取り込み沙汰からの怪我人手当で宙を見上げる余裕も全然なかったが、少年はリフィとスカディと一緒に、イリーの本当の守護神の姿を目の当たりにしていた。
「すんげえ、かっこ良かったようぅ!」
思い出したのか、鼻息を荒げてオルウェンは女神に言った。
『そう? ありがとう』
つられて女神も、ぽっと頬をあからめる。
「まっくろもじゃもじゃでさ! 羽が六枚もぎゅーんと大きくてさ、しっぽも長かったよねぇ! あとさ、あとさ! 何でおっぱいが十六個もあったの!?」
がきーん! 女神の背後のミルドレは、頭をぶん殴られたような衝撃をおぼえた。自分が折を見て聞こうと思っていた繊細な質問を……! こうもたやすく乗り越えてしまうのか、この新世代は!?
ビセンテは、怪訝な顔をしている。
『十六個……よく数えたわね……』
「あってた?」
『そう、十六個よ。どうして十六個かと言うと、横に四つずつ、四段にならべているから、四かける四でしし十六個なのよ……』
「へえー! そうだったんだああ! なるほどね!」
新世代のテルポシエ王子は納得顔でうなづいたが、後ろの旧世代騎士は腑に落ちないまんまで固まっている。
ビセンテはやはり怪訝な顔のまま、二個しかねぇぞと思いつつ自分の胸を見下ろしている。さっき皆して脱いだが、ナイアルとアンリとダンと自分、全部たしても十六にはほど遠い。はっ、もしやナイアルとアンリは、あのふかーい胸毛の中に三つめを隠しているのかもしれない、と勘ぐった。
「女神ちゃんて、どこに住んでるの?」
『前はテルポシエに住んでいたの。でも、今は色んなところに行くのよ』
「ふーん! そうなの」
久し振りに子どもと話せて、女神は嬉しかった。
きれいな翠の瞳をぎらぎら快活に輝かして、楽し気に熱をふりまきながら話す子ども!
「俺はねー、たぶんね、これからテルポシエに住むと思うんだ。大っきくなったら、王様になるから。女神ちゃんにまた会える? かっこいいとこ、また見れる?」
女神は、はっと胸をつかれる。
『……わたしを見て、聞こえるあなたが良い王様になったら。わたしはあなたを守るわ。大きい姿は本当のほんとのとっときだから、あんまり見られないのだけどね』
ローナーン! すこし遠くから、少年を呼ぶ声がする。
「今のまんまでもいいよ、かわいいから。じゃあね、またね!」
くるっと走り出しかけて、またくるっと逆戻りする。
「女神ちゃんに、飴あげるよ!」
エリンにもらった飴包みの残りを女神の手のひらにさっと載せて、少年は行ってしまった。すばしっこい子だ、祝福するひまもなかった。女神は騎士を振り仰ぐ。苦笑をひん曲げたような、珍妙な表情である。
『わたし達、そろそろ行くわね。またねビセンテ、からだに気をつけるのよ……ほがっ』
がし――ッッ。獣人の腕にけっこう強く抱きしめられて、女神は目を白黒させた。
「ありがとう」
きき間違いではない! 確かにビセンテは、そう言ったのである!
女神を離すと、ビセンテは後ろでへんな顔のまま固まっている騎士にも、おんなじことをした。普段の彼なら、こんなことはまずしない。けれどビセンテは嬉しかった。せっかく、ちょっとずつ手荒れが治って丈夫な手のひらになってきたエリンが死なずに済んだから、安堵してうれしかったのだ。
『またね!!』
騎士を抱えて、黒羽の女神はふいっと浮き上がる。ビセンテは見上げていた、黒い翼が力強く羽ばたいて、一人と一柱はぐうんと上空へ昇ってゆく、そしてビセンテの視界から消えてしまった。
・ ・ ・ ・ ・
ぶうーん、黒羽の女神と騎士は、西方へ向けて飛ぶ。
巨人鎮静の使命を果たして、イリー混成軍がオーランへ撤退するところである。
「じきに、“早駆け”が解けるぞー! その前に皆、撤収! 撤収ー」
黒羽の女神の意匠、細長い軍旗をかざしてきびきび声をかけるグラーニャ、その後ろでキルス老侯が額の鎖留を外して顔を出し、ゲーツに笑った。
「またしても、グラーニャ様のテルポシエ攻略はおあずけとなってしまいましたね」
「……はい」
「今回の“追撃”をあなたとご一緒できたこと、私は嬉しく思います」
「……自分もです」
「キルスはこれにて、現役引退です。あとはよろしく頼みますよ」
「……はい」
「最後の戦で、大きな黒羽の女神様を見られるなんて。ほんとに幸せな騎士生でした」
老将は顔じゅうにしわを寄せて、満足気に微笑んだ。
「……じっちゃん」
その時、ふいと近寄ってきた灰色馬の一騎があった。
こちらは鎖鎧に覆われて目しか見えない、……しかし老将そっくり、ひょろーりと長い体躯の若い騎士。
「おや、無事でしたね。またあとで」
ひょろい若者は目だけで笑い頷くと、馬の頭を回し、さっさと行ってしまった。
まだ新しい濃灰マグ・イーレ騎士の外套が、みごとに泥まみれである。背中の黒羽の女神の意匠が、矢筒にかばわれてかろうじて判別できるほどだった……。
ゲーツはキルスが、ごく自然に“黒羽の女神様”と呼んだことを心に留めた。
あれは善いものに変わった赤い巨人、つまり黒い巨人である。ランダルもディンジーもはっきり断言したわけではないが、自分達の調べた結果をつなげ合わせたまとめの仮説、ゲーツが何となく感じ取っていたものは合っていたのかもしれない。黒い巨人、すなわちイリーの守護神たる黒羽の女神……それを、自分達は見たのだ。
――俺は確かに見た。羽根は三対の計六枚、おっぱいは四列かける四段の計十六個だ。先生もオーランから見られたといいんだけどなぁ……でも俺の視線の方が絶対近かったよな、大迫力だ。早く先生に報告しなければ、最重要事項だぞ。十六個。
・ ・ ・ ・ ・
ぶうーん、黒羽の女神と騎士は、オーラン上空を通過した。
オーラン宮から続く遊歩道の先、シエ湾を広く見渡すずんぐり黒い塔の屋上。へりに腰かけた声音の魔術師が、実にうまそうな顔で、生ぬるい黒泡酒を飲んでいる。その隣、やはりうまそうな顔つきで、もぐり理術士がフカフカお菓子をぱくついている。
さらにその横では、『くろばね』同人主筆の面々が、肩を組んで一列に並んでいた。
「野性的でありながら、何て情緒あふれる可憐なお姿だったのでしょう……」
くすんと鼻を鳴らしながら、大男のジアンマが髭を揺らして言った。
「破滅です。全き破滅と、その先にある創造とを内包していました」
疲労を飛び越して恍惚とした表情で、ゲール君が呟く。
「あなたの名を冠した同人である我々の前に、その姿を現して下さる日が来るとは……」
禿頭のロラン編集長は、もう感極まって泣きそうである。
「女神様の風を、オーランとパントーフルは忘れません」
救命衣を着けたまま戻ってきたルニエ老公も、上品に言う。
「黒羽の女神様! あなたは確かに、そこにいらした!」
ランダルは叫んだ。
「我々は、あなたを信じ! そして、忘れません!」
白月半ばの十七日。冬を越えて再生をはじめた緑の野に、白い空の途切れめから瞬時、橙がかった金色の陽光がさしていた。




