234 東の丘の最終決戦20:間違った女王の血は流れる
音を立てずに、ギルダフは丘の北側から、頂上にあるメインの天幕裏へ近づいた。
大きく茂る樫の木、倒れた巨石がいくつか。ギルダフも、パスクアや他の幹部らと何度か訪ねたことがあったから、知らない風景ではない。ただ、妙に静まり返っていた。
――ほんとは、精霊がうじゃうじゃいるはずなのにね? それとも理術の効果で、やかましいのが見えないようになっているのかな。
ギルダフは思案しつつ、やや西の方で立ち尽くしている赤い巨人の姿を見た。そして、立ち止まる。やはり音を立てず、エリンを草の上に降ろす。
後ろの十余人には目配せ、マリューに指で招く仕草をして、彼は影のようにゆらりと天幕脇に立つ。
足元に横たわるメインを見下ろした。
しゃがむ。
ふわり、ももんが袖が黒くメインの顔を覆った。
「……」
ギルダフはおもむろに、腰に手をやる。そっと取り出した短剣を、何でもないようにメインの首筋に突き立てた。とん。動の脈の通る所、刃を抜き取っても、血はあふれない。
「……やっぱり、けっこう前に息絶えちゃったらしいな」
ぽつりと言った。
「巨人に、殺されちゃったのだろうかね?」
首を捻るマリューを見上げて、彼は立ち上がり、再び西の方角、赤い巨人を眺める。
「でも、おかしいなあ。メインが死んだのに、巨人あのまんまじゃん」
そこへようやく追いついたパスクアが、……ぎょっとしてメインに駆け寄った。
「お……おい、ちょっとっ!? メイン、お前ッッ」
がばっと耳を顔に、胸にくっつける、手首を握る。
「……息、してねぇ! 鼓動きこえねえ、脈もねえ! 冷たッッ」
「誰がやったんだろう……」
後ろでギルダフが言った。
「メイン! 何で、だようッッ」
パスクアは慟哭した。ギルダフはすいと歩いて行って、天幕裏に横たえたエリンに屈みこむ。
「まあ、良いか。次はこっち……なあ、お姫さん。聞いてる?」
エリンは細く目を開けた。
「あ、良かった。意識はあるんだね! やっぱり聞いといてくれないと、こっちもね」
ギルダフはしゃがみこんで、エリンの背を抱き起こす。
「メイン、死んじゃったよ。なのに巨人はあのまんま」
「……巨人が……でたの……?」
「あ、そっか。君はのびてたから知らんのだよね! ごめんごめん、ほら」
ずるり、ギルダフはエリンの片腕を引いて立たせる……いや、荷物を持ち上げる形で、そのまま天幕脇まで引きずった。
「見える?」
「……」
「ね。こっちはやることやってんのに、向こうはちーとも反応しない。かってな都合で、自分のいいように全部をもってく、ほんとくそったれな女の見本のようだよ。君とおんなし」
朗らかな調子で囁く、さいごに黒ぐろとした憎悪が混じる。
それにはっとしてエリンは顔を上げる、あごの下をぐうっと掴まれた。体が宙に浮く、……
ぶつッッ!!
勢いよく振られた右のももんが袖、その先に握られた短剣がエリンの左腿を貫いた。
「か、はぁッッ」
その乾いた小さな叫びに、パスクアがさっと顔を上げて立ち上がる。
「ギルダフ?」
彼の位置からはギルダフの大きな後ろ姿、それを膨張させてふわりと広がる、ももんが袖の黒い揺らめきしか見えない。
しかし、ギルダフの足元地面に、ぱたぱたっと吹き散ったものが視界に入った。
それで、パスクアは反応した。
だっ、走り出して勢いをつけて、そして跳んだ。
「あ」
がくりっ、喉元に重い鎖の感触、エリンを放し力を抜いて腰を落とすことで、ギルダフはかろうじて先行隊長の拘束初撃をかわした!
つっ、足の甲に留め置いている戦闘棒をひょいと手に持つ、ぐるうと振り向きつつ、ついた勢いの打撃、……すかッ!! 空を切った!!
「ぬっ」
どころか! ぐうん、じゃ・りーん! 思わぬ方向からの力に不意を突かれ、パスクアの長鎖に絡めとられて、戦闘棒はそのまま前方へ、ギルダフの手を離れてしまう。
それ自体いきものなんじゃないのか、そんな動きを見せる鎖は、ぜろっと棒を後ろに転がして、再びパスクアの手に戻った。
次の瞬間、分銅のついたその端はぶぶぶと回り、ぎーんとした翠色の殺気とともに飛び掛かってくる!
目の前で分銅の一撃を両手で受け止めるギルダフ、しかし間髪置かずに右腹に膝蹴りが入る! 思わずぐっと引き締めた右半身――脇に手刀! がしんと肘でそれを受ける、落とした右肩の上に隙があいた、パスクアは迷わずそこ、首筋を狙って左掌底を繰り出した!
しかし、左の黒いももんが袖が一瞬早く、パスクアの視界を覆った。
掌は硬すぎる肘に弾かれる、まとわりつく闇夜のような布地の感触がパスクアの感覚を濁らせた。気配を察知するのがほんの少しだけ、遅れた。
――しまっ……
きぃんッッ、小さな金属音の後に、びいいいいん!!
強い、強すぎる衝撃を左肩甲骨のあたり一帯に感じて、パスクアは歯を食いしばる。
肩越しに曲げた顔に、自分の血を浴びる。
赤い噴水の向こう、マリュー老人の冷たく乾いた表情が見えた。老人は素早く後ろに跳びすさって返り血を避ける、ごおん!! 右脇腹にギルダフの蹴りを喰らって、ずざっとパスクアは地べたに落ち崩れる。
歩み寄ろうとする老人、後ろの配下に向けてギルダフは手を振る。
「いいよ、いい」
脇に転がって、……しかし必死に肘をついて、起きようとするエリンを見る。
「とどめを刺して、欲しかないだろ?」
ギルダフの人差し指はパスクアを示している。
エリンは歯を食いしばって、ふるふるっと首を振る。目尻にためた涙が、それで地に落ちた。
「それじゃあ。ちょっと、あいつに何か呼びかけてみて。封印、できるかな?」
ギルダフは、今度は親指を立てて、西にいる赤い巨人に向けた。
「……かえりなさい。丘に、土に」
エリンは声を振り絞った。
静寂、なにも動かない。エリンの子宮と左腿だけが、ひくひくと泣き引きつる。赤い涙が、地にしみ続ける。
いたい。 でも、……エリンは深く息を吸った……。
「帰って、寝なさいよッ。消えろばか巨人、あんちくしょうッッッ」
渾身の気合で叫んでみた、いつか言ってやろうと思っていた言葉。
やっぱり、巨人は動かない。髪先の蛇すら、くねりともしない。
「……だめじゃん?」
ギルダフは、すっとエリンの脇にしゃがむ。ちらと腿の部分を見てから、何気なくエリンの左手を取った。
「あ、あぁぁああーっっ」
その左手首を、ギルダフの短剣が貫通した。さっと引き抜かれたそれは、今度はエリンの右肩へと差し込まれる。兄のお下がり、ダンの直した外套生地が必死の抵抗をしたが、刃はずぶりと鎖骨下に埋まった。
「血が足りない、ってわけじゃあ、なさそうだよねぇ」
眼を見開いて、もうあまりの痛みに声すら出せないエリンと、巨人とを見比べつつ、ギルダフはのどかに言う。
「はー……またしても、女の都合のいいようにやられちゃったよ。何これ、じゃあもう巨人止めようがないじゃん? なあ、マリュー」
「八方ふさがりってやつな」
「皆やられちゃって、滅びるしかないのかなー」
「俺ぁ割と長く生きたから、別にいいんだがな」
「ま、俺もね。どうでもいいんだけど……」
くるり、ギルダフは傷を押さえて震えるエリンに、爽やかな笑顔を向けた。
「女と男でできあがってる、こんな世界なんてな」
そぅー、顔を寄せて囁やく。やっぱりにこやかだ。
「所詮、べつの生きものなんだよ。あんた達と、俺たちは。それなのにどうしてか、子どもは生まれるしくみになっている。自分じゃ望んでもいねぇのに、ひでぇ現実で無理やり生かされる子どもは大迷惑、よなぁ」
目を細めて、……あざの上に笑いじわが寄る。大きな手のひらが、涙と鼻水まみれのエリンの顔にやさしく触れた。
「いいかげん。こんなくっだらねえ話は、しまいにしようぜ」
どっ……短剣がエリンの左頬に突き立った。刃の先が、がちりと歯に当たって止まる。
ギルダフは、そのまま短剣を上に持ち上げようとした。女の頬を目の下まで裂こうと思った、ちょうど自分のあざに似せた形に。別に理由なんてない、ふと思いついただけなのだ。しかしその刃を、なにかが止めた。
「?」
力を込め直したら、そのぶん何かも力をこめてきた。妙な力、精霊の悪あがきだろうか……。刃は動かせない。
――妙だけど、少なくとも女じゃねえなぁ。
ギルダフはするっと思う。女にしちゃあばか力だもの。気色わる。
瞬時に彼はどうでも良くなって、それでギルダフはふうと息をついた。囁く。
「ゆっくり苦しんでから、死ねよ。けどパスクア君は、あんたの嘘とあんたの都合に、十年以上も付き合わされて苦しめられた。かわいそうにね」
短剣を引き抜いてから、ギルダフは立ち上がってエリンの腕をつかみ、伏したパスクアの横へぽいと投げだした。どさり、ごみのように。そこの地面にさわさわ、……緑色の芽が伸び始めたのに、誰も気付かない。
「さー、巨人。もう何でもかでも、好きにしろや。殺すなり壊すなり、きれいに滅ぼしちゃえ」




