222 東の丘の最終決戦8:目覚め
「あっ、板が立ててある」
街道を南下し始めてまもなく、オルウェンが言った。
「そうね、ここからがテルポシエ領なのよ」
あなたの国、と心の中でエリンは付け加える。
「ファダン国境みたいに、詰所に人が立ってたりはしないんだね」
フィオナが何気なく言った言葉に、エリンは首を傾げる。
「……どことの国境?」
「フィングラスから、ガーティンロー抜けて、ファダンに入る辺りまでは歩いて来たから。そういうの、いくつか見たよ」
健脚なお子さま達である。そしてそういう越境の詰所を、子ども二人でどうやって抜けたのだろう?
聞こうとしたところ、とととと、……ギルダフが右の分かれ道を進む。一隊は一列となって、ずっと狭い林中の一本道へと入った。
――えっ?
エリンは不安を覚えた。すぐ前をゆくウレフが、前方のマリューとギルダフに声をかけている。
「おーい、何でこっち? 第二監視拠点に寄ってくのか?」
「連れてくんだよう」
振り返らずに言い放ったギルダフの返答が、エリンの耳にも届く。
「……まっすぐ行くはずじゃ、ないの」
「どこか別の場所へ、連れて行かれるのかな」
エリンの不安は即座に、両脇のフィオナとオルウェンに伝わったらしい。
〔おかあさんは、知ってたんだろうか〕
〔なわけないよ、見なよこの狼狽っぷり。たぶんエリンさんも、だまされてるんだ〕
「?」
子ども達の低く速いキヴァン語に驚いて、エリンは左右をきょろきょろっと見下ろす。
〔……本当につかまる前に、三人で逃げよう〕
〔うん。わたしはエリンさん、良い人だと思う。一緒に丘まで、行ってもらおう〕
「おかあさん、高いとこ平気かい?」
いきなりオルウェンに言われて、エリンは面食らった。
「え、ええ……?」
城の高みで生きてきたのだ。展望露台、東の鐘楼、むかし透かし堂があったとか言う所……、普通の人よりはくらくら眩暈を感じにくいかも、と思ってとっさに答える。
「じゃ、大丈夫だ。一緒に行こう!」
にっと笑ったフィオナの顔が、緑色の光を放った。
「ヌアラー! 皆、来てーっっっ!!」
甲高い叫びとともに、頭上に何かがふわりとかぶさる。
次の瞬間、がっしりとした何かに両腕を掴まれて、エリンは真上に飛び出した。
「え、え、ええええーっっ!?」
目の前に、林の樹々のてっぺんが並んでいる! いきなり空を切り出した足元、エリンは恐慌しかけた。
「エリンさーん、大丈夫っっ!?」
少し横に、淡く緑色に光るフィオナがいた。小さな体を、小ぶりの白鳥が掴んで……いや、娘の両手が白鳥の両脚を掴んで、浮いているのだ!
「このまま逃げよう、おかあさーんっ」
反対側に、同様に白鳥につり下がったオルウェンが浮いている。
『いやッ。ごめんフィオナ、俺ら無理ッ』
『このおばちゃん、二羽では進めないッ』
肩の上から声がした、自分の両腕をつかんで羽ばたいている白鳥二羽が、しんどそうな調子で人語を発している!
『実を言うと、俺もひとりではぎりぎりだぁっ』
オルウェンの上の白鳥も言う。
『ふたりずつで、あんたら子ども一人が限界なのよーうッ』
フィオナの上の小ぶりの白鳥、どうやらこれだけ女の子らしいのも、悲痛な声で言う。
「いやーっ、そこを何とかがんばれ! ほらっ、あっちの森の端っこまで……」
少し焦り始めた声で、フィオナは叫んだ。
エリンはぐうっとお腹に力を入れて、震えを追い払う。
「フィオナちゃん、オルウェン君! あなたたち、二人で東の丘へお行きなさい。さっき道の話をしたから、行き方はわかるでしょう!」
ぎいんと気合をきかして言った。
白鳥たちはぐんぐん高さを落として、下でわらわら騒いでいる男達の声が届き始めた。
「わかるっ。でも、エリンさん!」
「まっすぐ、お父さんの所へお行き! オルウェン君、あなたは何とかして、ナイアル君かリフィと合流するのよ。いいわねッ!?」
「おかあさんっ」
「わたしを降ろして、子ども達を連れて行って」
左右の白鳥たちに言う。とたん、二羽はぐぐぐぐっとさらに下へさがる。
「オルウェン・エル・シエ。行って、ぶじに生きて……」
どうっっっ!!
くはッッ。
エリンの言葉は、強い衝撃で最後を砕かれた。何かが腹に……下腹に当たってはじける。エリンは瞬時、刺されたと錯覚した。視界がしろくなる。
左右の二羽の白鳥はそれでエリンの腕をはなしてしまい、ぐるぐるっと落ちかけてようやく上昇する。
エリンは落ちた。
そのまま、自分を撃ったギルダフの戦闘棒の勢いにもっていかれて、後ろ向きに落ちて行った。
どおん。 ざ、ざざざざっ!!
着地は柔らかかった。全力で追いついたウレフが、すんでの所でエリンの身体を、その分厚い胸板の中に受け止めていた。
「何で、撃つんだぁああ!?」
失神してぐったり力の抜けたエリンを、ぶるぶる震えながら抱きしめて、ウレフは怒鳴った。
「飛んでるやつは、撃ち落とすしかないじゃない」
近くに落ちた戦闘棒を拾い上げながら、ギルダフは笑顔で答える。
「子どもは、逃がしちゃったかぁ……」
白鳥二羽ずつに持ち上げられて、フィオナとオルウェンは低い雲の中に入っていった。
目を細めて、ギルダフは空を見上げる。
「まぁ、いいか。行き先はわかってるんだしね。おーい皆、先いそぐぞう」
「お姫……おい、お姫よ」
ウレフの囁き声は、エリンに届かない。代わりに、彼女の子宮が涙を流し始めた。
ずっと耐えてきたいくつもの古傷が、今の衝撃で全て開いてしまった。子宮の流す赤い涙は、少しずつすこしずつ、外界へ出てゆく。
その赤い涙を、それは機敏に感じ取った。
ゆるゆるゆる、丘の下深くで気持ちよくまどろんでいた赤い存在は、ぴくりと笑う。でも、まだ眠い。ゆっくり、ゆっくり起きてゆくかと思う。あくびをひとつ。
≪ふわああああ。……ひひひ≫
その小さな笑い声は、大地を伝ってかすかに、だが確かに響いてゆく。
真上のメインが、一番先にそれを聞いた。
巨石の上、横になっていた彼は目を開けた。
「……来たよ」
・ ・ ・ ・ ・
少し離れたオーラン宮、シエ湾をのぞむ遊歩道の果てにある黒い塔のてっぺんで、声音の魔術師も蒼い瞳を見開いた。
「来ーたねー」
・ ・ ・ ・ ・
よく似た蒼い瞳を、こちらはしれっと細めて、ファダンとテルポシエ国境まぎわ、街道脇の店にいた声音の魔女も言った。
「来やがったわぁ」
ぐいっと杯を干す。
・ ・ ・ ・ ・
一番遅れて、フィングラスの深い森の中、青ぐろく濁った湖のほとりにいた一人と一柱も、顔を見合わせた。
「来ましたね」
騎士はのほほんと言って、短槍を水面から引き上げ、穂先にくっつけていた釣り糸と針を取り外す。
『来たわ』
女神は立ち上がり、両翼をぐぐっと伸ばした。
・ ・ ・ ・ ・
ギルダフたちが発っていった後の、領外の仮拠点では、何にも知らないひらの常駐傭兵二人が、色々の後片付けをしている。
「久し振りに、お姫さんを見たなあ」
「だいぶ、しぼんだね。外套でわからんかったが、けつもしぼんだのかね」
「しぼむもんなの?」
「知らね。おっぱいは、しぼむらしいよ」
椀を洗う彼らの背後では、焚火が勢いを失ってしぼみかけていた。
しかしそこからまっすぐに立ち昇る、ほそい細いひとすじの煙がある。
傭兵達は、気づいていない。幸い風の弱い日だった、煙はけんめいに空をめざす。
・ ・ ・ ・ ・
「……」
シエ半島、東側からシエ湾とテルポシエ市一帯を広く見渡せる絶景の地にあるその家には、一見煙突のようなものが突き出ている。
近づいてよくよく見なければわからない。藁ぶき屋根の家の脇から梯子で登れるようになっているのは、実は物見のやぐらなのだ。
つい先ほど、聞いたことのあるようなないような、気ッ色わるいけものの声を聞いたビセンテは、はね返す殺気むんむん、家と庭の周りを囲む木立に眼光を光らせた。
しかし何もないらしい、次いでやぐらにのぼった。牙……違った、犬歯を片方ずつ交互にむき出しながら、じいっと周辺を睨む。妙だなと思いつつ、目を上げて海を、ぐるうと岬の付け根を回っていったところにあるテルポシエ市の城塞を見つめた。
その辺、……後ろの東の丘から、気ッ色わるい呼吸音、みたいなものが出てきている。
丘の辺りをぎぎーん、と睨んでから、ビセンテはその後方を見ていった。
そして彼の獣的視力は、ついに“のろし”をとらえる。
ビセンテは、蒼い双眸をずごーんと見ひらいた!!
ふわり、ずん!!
梯子を下りてる暇はない、彼は直接地面に飛び降りた。
「ナイアルぅぅぅぅッッッ」
怒鳴り声に、家がびりびり震える!
「何じゃあッ」
白いしっくい壁の、すてきないなか家! もも色さくら草の鉢植えの置かれた、かわいい出窓がぱかっと開いて、中からぎょろ目の顔がのぞいた!
「北、のろしッッ」
くわッ!! ナイアルはさらにその目を見開いて、裏口から飛び出すと自らもやぐらをのぼっていく。
その後からダンとアンリが、やはりやぐらへ押し寄せる。一番上の物見台に全員がのぼることはできないから、後続の二人は梯子の途中で鈴なりだ!
「うおおッ、あの色は! 間違いない、俺っちがお姫にやったやつだ。北で緊急事態とな、行くぞぉ皆ッッ」
どどどど! アンリとダンは家の中へ走り込んでいった。
「しかしッ! ありゃどう見ても、領外だぞ? そんな所で一体何をしてるのだ、お姫のやつはッ」
ナイアルと入れかわりに梯子を上って、イスタも北の方角を見た。すぐに降りてくる、家の中に向かって叫んだ。
「どうすんの、ナイアルっ? 馬で行くかいッ」
「ううむッ。そうだな、これは想定訓練の五番に相当する。テルポシエ市内ではなく、その先の……恐らく旧軍監視拠点の先にある、領外の“仮拠点”あたりで何か起こったのだ! 俺っちが騎馬先行しよう、お前は三人を連れて早足後続。いいなッ」
「じゃあ、お隣から一頭借りてくるよッ」
くるり……! イスタが踵を返しかけたところに、小さな影がすちゃッと立ちはだかった。
お婆ちゃんが、左手の指を二本つき出している。
「えっ、二頭? ……そうか、わかった!」
イスタはだっと、玄関から出てゆく。
「お婆ちゃん、ついに俺らの出番がきたッ。行ってきます、……って何で、そんな格好してんの?」
通称“岬のお婆ちゃん”は、枯草迷彩しみしみ柄のつなぎもんぺ服を着て、うに角獣毛皮をあしらった頭巾をぴっちりかぶっていた。あご下に、白い首巻をきっちりまいている。
ちゃりッ! 右手人差し指を中心に、銀色の環が回転する。その先にくっついているのは、奥の納屋の鍵だ! くるくるっ、ひゅーッ!
お婆ちゃんの手からダンの右手に、それは飛んで行ってぱしっとおさまる。隊長とビセンテは、だだだと出て行った。
「……何なの?」
「ナイアルさんは、出張から帰って来たばかりですから知らないですけど。想定訓練各番に、お姫さまの危機が重なった状況むけとして、こないだ皆であたらしい対応策を練ったのですッッ!」
台所の方から、アンリが張り切った大声で言ってよこした。
「何だとッ」
ひひーん! 外からいななき声が聞こえる。
玄関先には、ダンとビセンテの引き出した軽量型の荷馬車が!
「ちょい待て、皆でまとめて行けるっつうのか!?」
「その、通ーりです!!」
がちーん! 背中にティー・ハル装着、左手にいつの間にか作ったお弁当包みを提げて、アンリは不敵に笑った!
「俺たちのお姫さまの危機に、どん臭く間に合わないというのでは話になりませんッ」
「じゃあ、先に馬に乗れるようになれッッ。 ……え、お婆ちゃん、何で御者台に」
イスタと並んで座った小さな老婆は肩越しに、ナイアルに笑顔を向けた。きらッ! 自前の白い歯がかがやく、この日のために長い人生通して歯みがきを続けといて、本当に良かった!
「さーっ、早く早くナイアルさんッ」
ダンもビセンテもアンリも、既に荷車に乗り込んで、各自の武器を押さえている。皆、頭巾襟ぐりのうに角獣毛皮を出している、まるく抜き出された顔がいつも以上に毛深い!
「何? 今日そんなに寒くもねえのに…… ぎゅわあああああッッ」
いきなり馬車は走り出した。自宅前庭から飛び出して、まず左折ッ!
村の中心路を、どどどど! 爆走! 人通りがないことを良しとして、お婆ちゃんはがんがん飛ばす!
「はよ――――ッッッ」
何と言う、いなせな掛け声だ! 馬だって張り切るぞ!
「つかまった方がいいです、ナイアルさん! 村の外に出たら、さらに飛ばします!」
「お婆ちゃぁぁぁぁあん!?」
引退してだいぶ経つが、お婆ちゃんはその昔、亡き夫とともに駅馬業者をしていたのである。
寄合馬車担当のおじいちゃんは安全運転で知られていたが、村に治療師のいなかった頃、急患の人をテルポシエまで迅速に届けるのは、お婆ちゃんの役割であった。
ひと呼んで“怒涛のミサキ”、かつての暴走娘はその馬乗りの才能を活かし、村の平和を守るために活躍していたのだった! (ちなみに、ミサキというのは岬のお婆ちゃんのお名前である。)
「次、右よって! 右折準備!」
彼女の衰えた視力を、若きイスタの目が補う!
「すげぇッ、お婆ちゃん! この調子なら、半刻かからずテルポシエだっ」
「その前の道で折れるんだ、北方街道へ直結で行くよッ」
驚異の視覚記憶力を持つ“第十三の秘蔵っ子”イスタの水先案内があれば、隊長が奇跡的方向おんちでも、地図の読めないめし係でも、何の問題もないのだ!
「待っておれよ、お姫! 今、俺たちがゆくからなぁああ!」
短槍を握りしめつつ、ナイアルは低くうなった。
――うに角獣毛皮、くすねて来たの、まだいっぱいあるし。袖にもつけてみませんかと聞いてみるかな。いいや、花柄かくしの付け足しの方が先かな。草色生地に……橙色とかいいかな。
長槍を抱いて座りつつ、今日も平常心の隊長ダンは、エリンの外套お直しのことを考えている! 野郎どもの服修繕ばっかりであきた、たまにはきれいなのも作りたい!
――いったい、どうなすったと言うのだろう。あの特製のろしをあげるということは、相当な面倒ごとに巻き込まれてしまったに、違いない! きのどくに、お姫さまッ!
平鍋ティー・ハルの硬さを背に感じつつ、焼きたてぱんのような顔を寒気にさらして、アンリはエリンの身を案じている。
――動転しているなら、胃の一番にまずは杣麦お粥だ! 意気消沈しているようなら、香辛料をきかせて……さらに疲れ切ってる場合は、根菜で和ませるのだ。あっ、先にくるみをティー・ハルで炒ってあげようかな? くるみ割り忘れたけど、ビセンテさんがいるから問題ないし!
お弁当箱に入れてきた食材での、対処法をひたすら考える料理人の横。ビセンテは真剣に、するどくするめを噛んでいる!




