220 東の丘の最終決戦6:姉弟
北方街道をぐんぐん進む。
最北の監視拠点を過ぎてしばらくすると、テルポシエ領をいつのまにか越えている。もうここは穀倉地帯になっているのだが、峠に差し掛かった山あいの部分だから住む者もない。次の集落に到達するまで、四愛里ほどものぼらなければいけなかった。
だから、少し林を分け入ったところにあるエノ軍の“仮拠点”も、なあなあで維持できていた。掘立て厩舎の周りに天幕をいくつか張っただけの代物だが、実はこれも旧テルポシエ軍が作ったのを再利用しているのだ。無法地帯ならではの産物である。
樹々の間、うすく踏み分けられた山道を辿ってそこに着いた途端、焚火を囲んでいた数人の男達が寄ってくる。
「エリン!」
その後ろからパスクアが、ノワとエリンの馬に駆け寄って来た。
「ありがとう、ウレフ、ノワ。エリン、早くッ」
抱き下ろされて、そのままぐいぐい手を引っ張っていかれる。
三つある厩舎のうち、一番端にあるひとつの戸を開ける。薄暗かった。
「連れてきたぞ。テルポシエのお姫様の、エリンだ」
呼びかけるパスクアの声は、何かを必死で抑えていた。
エリンは目を見張る、二人の傭兵が立っていて、その向こう一つの仕切りの中、敷き藁の中で何かがもぞついた。
目を細めて、弱い光の中でそれを見る。ああ、子どもだ。
「……出ておいで。明るいところで、話そう」
二つの小さい影が動いて、あけられた厩舎の扉の前に来る。光の中へ。
エリンは唇を噛んだ。息ができなくなった。
「エノ首領のメインか、テルポシエ王女に会うまでは、何も話さないっつったな。ここにいるのは、正真正銘のエリン・エル・シエだ。何があったのか、そっちの子が誰なのか、今すぐ話せ」
すーはー、息をついてからパスクアは付け足して、でも重く言う。
「……フィオナ」
「名前、知ってんじゃん」
少女にしてはやたら低い落ち着いた声……大人ぶりすぎた声で、その子は言った。
「わたしはフィオナ、お父さんに会いに来た。だからテルポシエに行きたい、それだけ」
めらめら燃え立つようなみじかい赫毛に、ぎくりとするような眼光を湛えた褐色の瞳。しろく小さな顔には恐怖なんてみじんもない、ただ何かに怒っている、深く怒っている。
若草色の巻き外套は少し大きめにこしらえてある。ふわりと膨らんだ毛織生地の下からまるっこい山羊皮長靴の出ているさまは一見かわいらしいのだけれど、少女のその表情のきつさが子ども的要素を全て打ち消して、一筋縄では行かない子だ、と思わせる。
「こっちは、弟のローナン。でもほんとの名前は、オルウェン・エル・シエ」
少女は、ぎーん! とエリンを睨み付けた。
「あんたの、息子。顔がおんなじだから、別に疑わないよ」
憎々し気に言い放つと、少女は震えを必死に止めようと両腕を抱え込んだエリンの方へ、少年を押しやる。
「……あいさつすれば。ローナン」
少年はエリンの前に歩いた。少女の言う通り、自分によく似た顔の子である。つんつんまっすぐな白金髪、大っきな翠色の瞳……。
――あああああ。本当のほんとうにふかい緑だわナイアル君、どうしようどうしようどうしたら良いの助けて。
「こんちは」
右頬の黒羽じるしをくにゃっと曲げ、笑いながらその子は言った。
「うみの、お母さん?」
「……こんにちは」
つられてエリンも笑った。
「エリンです」
心の中が真っ白になる。
エリンは動けない。こんな風に再会するなんて、想像できなかった。ただただ、彼を、目の前に佇む小さな少年を、見つめるしかできない。……男の子は、こちらも暖かそうな青い毛織のふくろ外套を着ている。ふと、その下に鎖が下がっているのが見えた。
「俺は、メインの友達だ。お前の母ちゃんのことも知っている、イオナはどうしたんだ? フィオナ」
緊張をはらんだ声で、少女に向かいパスクアが問う。
「ぐずぐずしてるから頭に来て、出し抜いて来てやった」
「……はぁ?」
「お母さんはいつまでもいつまでも、帰る帰らないで迷ってばっかりいる。だからもう、待ってらんなくなった。一人で行こうと思ったら、ローナンがついてきてくれた」
「……」
「歩いているうちにだんだん疲れてきたから、のりものを使うことにした。あの商人たち、北へ行くって言うのが聞こえたから、途中までついでに乗っけてってもらおうと思って。荷車の中に、こっそり忍び込んだ」
「……さらわれたんでは、なかったのか」
「わたしが?」
はっ、少女は鼻で笑う。
「なわけないじゃん。大人になんか、つかまらないよ」
「……現にこうして、つかまったぞ?」
「違うよ、あんたらがつかまえたのは商人たち。わたしはどっちみち、ここらで降りてテルポシエへの道をくだるつもりだったんだし」
ものすんげえ娘だな、とパスクアは思い始めている。何をどうしたら、ここまで居丈高な子どもができるのだ? メインにもイオナにも、さっぱり似ていない!
「そろそろ行っても、良いでしょう?」
「……えーと、な。昼だし、何か食わせるから……。それの後、一緒にテルポシエに行こうか」
「そういうことなら、いいよ」
くるっと少女は振り返る、少年もそれに続く。厩舎仕切りの中へ、自分達から入っていった。
パスクアは、エリンを見た。これまで見たこともないくらいに、怒った顔で。
・ ・ ・ ・ ・
厩舎裏、少し離れた林の近くへ、エリンはパスクアに引っぱっていかれた。
「どういうことなんだよ」
「……わたしの、子です」
「だよな? あの顔にあの名前、お前の子よな、そうでしかありえないよな? でもって俺との、あの子なんだよな? 死んだんじゃあ、なかったのか」
「……」
「どうして、イオナの娘の“弟”になってんだよ。わけわかんねえよ。説明しろ、今すぐここで、俺によーく分かるように、全部だッ」
「……政情治安の不安定な当時の環境下で、イリー王統後継者のあの子を、無事に育てられるとは思わなかった。イオナさんに託したのは、なりゆき」
もしも、の場合に備えて準備してあった言葉を、エリンはそのまま言った。
「無事にって何。王族だから狙われるつうこと? 俺はその辺ひっくるめて、結婚しようってずーっとずーっっと言ってたんだがな? 幹部の嫁と子ども、そんならどうでも安全よな?」
日焼けした顔が、切れ込み髭の板について来た顔が、かなしい怒りでしろく引きつっている。翠の目をぎんぎん光らせて、パスクアはエリンを責める。混乱してもいる。
「……千歩ゆずって。お前が、何が何でも隠して育てたいってんなら、俺は聞いたよ? いや、お前がしたいことなら、俺は何だって認めた。エリンなら、俺のエリンなら、何するにしたって真っ当まじめな理由があるんだろって、信じてたからな?」
すうううう、パスクアは大きく息を吸った。鼻に下り始めた、内側の涙とともに。
「けど。けどこんなの、……どうしたって酷いよな? 生まれたことも秘密で教えてもらえないって。……俺ってお前の何?」
「あなたは、わたしの大切な人」
ぐあっと瞳を見開いて、パスクアはエリンを見下ろした。
「と言う風に言われて、信じられると思うか」
エリンもパスクアをぎいんと見上げた。全てをこらえて、……そのこらえが挑戦の眼差しと見て取られても、もう仕方がないのだと思いつつ。
「……出てって、くれ」
低いかすれ声で、男は言った。
「俺の人生から、出てってくれ。もう無理だ、お前はいつだって大事なとこがだんまりだ。俺はお前を幸せにして、自分も幸せになりたかっただけなのに。……こんな哀しいばっかりのこと、耐えられるかよ。あの子を連れて消えてくれ、俺の視界から」
そうして、視線と体の向きを横にそらした。
エリンは黙っていた。もう何を言ってもだめなのだ、としか思えなかった。
だから彼女も、目を伏せ顔を伏せ、ゆっくり踵を返した。
「あっ、お姫さん! ちょっと」
厩舎のかげから出た所で、見計らったように声がかかる、ギルダフが寄ってくる。
「粥つくった奴が呼んでるんだ。子ども相手なら、おっさん達よかあんたの方がいいだろ? 持ってって食わしてやってよ。あんたも一緒に」
「あ……ああ、はい」
良かった助かった、目の前の現実に逃げられる。エリンはそそくさと、焚火の方を目指して歩く。
それを見送って、中年幹部はひとり下を向いて佇んでいるパスクアの近くへ、音もなく寄った。
もわりと黒いももんが袖が揺れ、その上に白い息がかすかに重なった。
「……やっぱり、彼女と君の子だったのかい。あの男の子は」
エリンに呼びかけた軽い、優しげな調子と打って変わって、ぐううっと低く落とした声で聞く。
「みたいだぁね」
「知らなかったのかい」
「全ッ然」
「……わけわからないね。どうしてこんな、ややこしいことするんだかな」
パスクアはうなづく。
「結婚できないっていうのは、まあ分かるっちゃわかるんだけど。別に子ども一緒に育てたって、いいと思うんだがなあ」
「? わかるって……?」
ふいと顔を上げ、パスクアはギルダフの顔をまっすぐに見た。
「ほら、彼女は名目上だけだけど、イリー的に見れば女王じゃない。だから女王と結婚すりゃ、君が王ってことになるわけでしょ? たぶんその辺を受け入れられなくての拒否、なんでないの」
激しく瞬きをして、パスクアはギルダフを見つめた。ひと好きの良さそうな顔が、まじめにこっちを見返している。
「……そんな、あほなことが」
ギルダフは、きゅっと両肩を上げてみせる。次に横方向、エリンが歩いて行った方へあごをしゃくった。
「……あの、男の子もさ。成人してからテルポシエの残党を一挙に集めて決起させるために、あえて秘密にして手放したのかもしれないよ? 君と一緒に育てていたら、そういう細工はまあできないよね。完全にエノ軍の子、って認識されちゃうわけだし」
「なっ……」
旧貴族の残存勢力の話なんて、聞いたこともなかった。陥落直後、賊化した奴らの噂を聞きはしたが……。おおかたの旧テルポシエ貴族は現在、追放先のイリー諸国でおとなしく生きているはずだった。
「いやごめん、これ俺の想像。でもさ、それ以外に理由なんて考えつかないよ。せっかく産んだ子なのに、自分から生き別れするだなんて」
「……」
「はーあ。また女に失望した。どうして女ってのはこう、正面どかんとぶつかって勝負に来ないのかね。くるっと逃げたり、細工だの嘘だの重ねてばっかりでさぁ」
ギルダフの瞳、大きく黒いその目が、どこか遠くに向かう。
「イオナの奴には期待してたんだ。男も構わずぶっ飛ばすあいつなら、何があったってずどんと動じねえ母ちゃんでいるのだろう、ってさ。なのにメインがこんだけ苦しい最中に、とんずらしちまいやがった。だからお姫さんには一縷の望みを持ってたのさぁ、気骨ぶっとくパスクア君と仲良くやってくんじゃねえかって。……でも結局、裏切られたのは君と俺と、……俺たち皆か」
――裏切られた、……
ギルダフの言葉は一応パスクアに向けられていたものの、独白じみてもいた。けれど“裏切られた”という一語は、それ以外に何とも言い換えられない真実として、パスクアの耳孔に入りとどまる。
「この後、子ども達はどうする?」
「……とりあえず、二人ともメインの所に連れて行くよ。それしかないだろ」
「そうだね。で、パスクア君。お姫さんなんだけど、俺に回してもらえない? 変な意味じゃーないよ、利用して餌にしようと思うんだけど」
怪訝そうに目を細めるパスクアに、ギルダフは笑ってみせた。
「さっき、俺の想像と言ったけど。もし本当に彼女が旧勢力と結託していて、エノ軍の転覆とかテルポシエの主権奪回うんぬん狙っているなら、ちょっとした脅威じゃない。そうなる前に先手を打っとこうよ」
「……何すんの」
「この辺の拠点に監禁しておけば、誰ぞが助けに来るだろう? そこをバチっと捕まえて、ぶっ潰すんだ。あ、もちろんあの長槍護衛のお嬢ちゃんは除外だけどね、あはは」
左目元の爛れあざに笑いじわを作って、ギルダフはたのしそうに言う。元気だ。
一方のパスクアは、もう何を思う気力もなくなってきていた。
「……好きにしたらいいよ。もう、俺の女じゃない」




