216 東の丘の最終決戦2:ランダル王の良心
やわらかい女性文字の宛名が書かれた布便りを開いて、マグ・イーレ王は自宅書斎の机の上で頭を抱えた。
――全然全然全然わかってないっぽい!! はっ、まさか暗号が解けなかった、とか言わないでしょうね?
連絡手段は得たものの、エリン姫に直接たよりを書くのを、数年間ためらってしまったランダルである。
一番早く巨人の正体に、そしてその危険の原因となったテルポシエ王統の非正当性に気付いた彼だったが、このことについてはゲーツ以外の誰とも共有していなかった。
声音の魔術師ディンジー・ダフィルには、かなり深いところまで話してある。しかし、巨人を鎮めるにはエリン姫が死ななければいけない、という部分は極力ふれないようにしてきた。まぁ、あの森の賢者なら、とっくに知っていて不思議はないけれど……。
そしてなぜエリンが正しい王統の継承者でないのか、皆の注目がそこに向けば、必然的に自分はミルドレ・ナ・アリエ侯の歴史的愚行について、これまでの調査結果を公表しなければならなくなる。ついでに摩訶不思議なそいつは、いまだに健在でいるらしいから、ここでも不安をあおることになろう。
そうして一番の危惧は、グラーニャのテルポシエ王座を主張して、ニアヴが大戦争を開始する可能性だ。
――やっぱり、エリン姫本人は全く気付いていないんだな……。自分が正統な女王でない、ということに。
かわいそうに、とランダルは溜息をついた。
大昔にテルポシエ宮廷で会った時、エリン姫はほんの十かそこいらの女の子だった。嫁いできた頃のグラーニャにそっくりだったから、その印象で今でも憶えてはいるけれど、色々な方面からの話を聞くに、後生はずいぶんと踏みにじられているらしい。
それでも脱出せずに蛮族軍の中でひとり突っ張っている、一体何が彼女をそこまで……。この便りの中にも、“生まれ育った東の地にて動じず”なんて書いちゃっている。
お逃げなさいと書いてしまったのは、あるいは便りそのものをしたためたのは、ランダルの良心のせいに他ならない。
マグ・イーレの、いやイリー世界の安泰のためには、エリン姫はさっさと死んでしかるべきなのだ。
そうすれば巨人の脅威は払拭されるし、イリー主君をなくしたテルポシエなんて、ただの蛮族の巣窟でしかない。
デリアドからオーランまで、全国参加の混成イリー軍で囲ってしばいて叩きのめして、以上終わり! である。ついでに新たにグラーニャ女王を王座に据えて、再びイリー国家として再出発させるのだ。……
わかっているのに、でもランダルは言えなかった。
全世界から、死ねと言われて追われる女性……。
マグ・イーレにやって来た後、からからの白い亡霊みたいになっていた女の子の姿が、今でも脳裏に焼き付いている。
どこからも、誰からも疎まれて、笑うことも食べることもできなくなって、彷徨っていたその少女を、当時のランダルは救えなかった。いいや、救えるとか救おうとか、そもそもそういう考えに至らなかった。ランダル自身が病んで、救いを求める側だったからだ。
肩書上の妻であるその女の子を、夫としていいと思ったことは全くない。けれど後悔している。いまのランダル、歴史と物語に支えられて立ち直った今の自分なら、あの女の子に何とか寄り添ってやれたはずだと思う。……後悔役立たず、だ。
だからせめて、かなしい歴史が繰り返されるのを阻止したい、と思う。グラーニャと同じ顔をした女の子が、巨人や他のものになぶり殺されるのを防ぎたい。
隠居中のおじさん王の、自己満足である。傍からみたら、歪んでいると思われても仕方がないだろう。けれどやっぱりランダルは、ランダルの中の自然は、エリン姫が生きのびることを祈っているのだ。
「……」
ランダルは溜息をついて、ティミエル嬢からの便りをたたみ、机の引き出しにしまった。
その横に、布包みが入っている。麻紐で十字に括ったその交点に、“くろばね200年翠月用原稿”と記した布札がついていた。
とんとん、扉を叩く音がする。
「大父さま」
「はい?」
すっと入ってきた姿を見て、ランダルはまじまじと目をみはった。
「近衛騎士さんが、会議のお迎えに……」
少女はととっ、と王に走り寄った。
「どうしたの。どうしたの、どこかわるいの! いたいの?」
ぽよんとまるい顔、頬っぺたがみるみるあかくなって、ロイは大きな翠の瞳をさらに大きくひろげる。あたたかい手のひらが、ランダルの左右のあごひげの辺りを包んだ。
「ないちゃって! どうしたの、大父さまぁ」
「あ~……」
自分でも何故なのかわからない、……いや年齢のせいだ、とランダルは思い直す。衝撃的に、涙がぼろろっと流れ出てしまった。
両腕にぎゅーう、と娘を抱きしめた。
「ロイちゃんが元気いっぱいで、……それが嬉しくて、泣けちゃった」
「何それー!?」
胸の中、くぐもった声で抗議してくる小さな娘。
やはりグラーニャと同じ顔をしたこの子が、いつまでも健やかで、しあわせでいて欲しいと、王は心底ねがっている。




