215 東の丘の最終決戦1:忠告の暗号たより
「ごきげんよう、エルリングさん」
「おう、お姫に福ある日を。今朝はメイン、元気だったかい」
「ええ、最近ちょっと調子良いのよね。これが、署名してもらった書類……」
イリー暦200年、白月のとある日。
テルポシエ城の財産管理庫、いつもの仕事を始めるつもりで机の引出しから墨壺を取り出しかけたエリンに、出納係が近寄った。
「ほい。ファダンの仮住所に届いてたって、ウレフとノワが置いてったよ」
「あらっ」
手のひら大の布便りである。
ガーティンローの書店へ出かけて以来、時々それ関連の便りをもらうことがある。エノ軍幹部たちは、エリンがメインを救うために巨人の謎を探っているのを知っているから、こうして先行要員たちの網や拠点を利用しても、誰も何も言わなかった。
“ティミエル・ニ・メキュジリ嬢”
その便りの上、自分の偽名があんまり美しく書かれているものだから、エリンはちょっと目を見張る。
「達筆よなあ。また、史書家とか学者かね」
エルリングまで感心する程だった。
裏には、全く知らないガーティンロー領の差し出し住所が書かれている。
「そうね。きっと書店手代さんの紹介で、何か歴史の史料を教えてくれる人が出てきたんだわ。仕事をちゃっちゃと片付けて、あとで読みます」
・・・
夕方、ほたて殻に灯した蜜蝋の下で、エリンは便りの麻紐封を切る。
ケリーはいつも通り、フィン先生を手伝っているから、今日も遅くなるのだろう。一人だった。
エリンは読み始める。
中身もすてきな筆づかいである。
――へえ、やっぱり史書家さん。
キノピーノ書店の常連客、手代ゲールの紹介で彼女のことを知った、巨人の物語について派生の話が……亜流が……年代が……云々……。
「ふぁあ」
あくびが出た。すばらしい、眠る前に読むのに最適なおたよりだ!
「何を仰りたいの、ササタベーナさん……」
文章としては一応成立しているけれど、何を伝えたいのか、さっぱりわからない内容である。学術的な姿勢で、何らかの持論を展開したいらしいが……。ひょっとして、歴史についてはしろうとのエリンを小馬鹿にしている?
――それにしては、筆があんまり上品できれいで、優しすぎるのよね。いじわる言いたい人って、どこかしら字まで陰険だったりするのに。
うーんと眺めて、おや? とエリンは思う。
きれいにきれいに整列している文章なのに、ところどころの単語が不ぞろいだ。蜜蝋の灯りに近付けてみると、どうも硬筆を持ち替えながら書いているらしい。
だいたいのところは男性用の太い硬筆、時々女性用の硬筆で細身の線になっている。エリンはいつも男性用の硬筆だし、実はおおかたの女性もそうしている。だから女性用硬筆はあんまり需要がないのだけれども、握りの具合などを好んでいる人たちは一定数いるらしい。
「……」
胸騒ぎを感じた。便りの初めから、細い硬筆で書かれた単語を抜き読みしてみる。
「西は すでに 気づき はじめました」
――!? 西?
エリンは自分の筆記箱を出して、布切れにその単語を書き付ける。続いて、女性用硬筆で書かれた部分を全て抜き出してみた。
::西は すでに 気づき はじめました 巨人の 正体 あなたは まちがっては いない けれど あなたは 正しい王 ではない おにげなさい 卵 女性 今の うちに::
「!!」
終わりの部分を書きながら、エリンはどきりとした。“卵”と“女性”。
彼女の名エリンは、“エイル・リーン”、すなわち“卵の娘”を短く縮めたものなのだ。つまりこのササタベーナ氏は、エリンの素性をちゃんと知った上で、呼びかけている!
「……逃げろ、って……」
西とはどういうことだろう。テルポシエから見て西、つまりイリー都市国家諸国ということか。
「わたしは間違っていないけれど、正しい王ではない……と?」
ここは全くもって意味不明だ。抜き出し方を誤ったかと確かめたが、やはりそこだけ単語は細い。
――『テアルの巻』を読んで、巨人の話に精通している人だわ。実際に出た巨人のことも、たぶんよく知っている。それじゃどこかの騎士団から、軍事情報を得られているのね? 差し出し住所はガーティンローなのだから、やはりガーティンロー騎士か……、あるいは執政官級の高位文官かしら。でも待って、巨人の正体って。そんなのわたしだって知らないのに、他の誰が気づいたと言うの?
エリンは、両手の中の布便りに見入った。
――あなたは気づいているの? ササタベーナさん。そもそも、あなたは一体どなた?
箱の中をさぐり、エリンは新しい筆記布を一枚取り出した。少し首を捻ってから、墨壺に量産型の硬筆を浸す。
::拝啓、ササタベーナ先生。
燈火節の蜜灯りも残り少なに、春の芽吹きをかいま見かける今日この頃、いかがお過ごしでしょう。おたよりをたいへん興味深くよみました。先生のご指摘なさる部分について、さらなるご教授をいただければと存じます。生まれ育った東の地にて、動じずご返信をたのしみにお待ちしております。……
流麗な王朝風の時候の挨拶なんて入れない。読書好きな、いなか町のそこそこ年齢女性のお便り……に見えるかな、と思いつつ偽名で署名する。きゅっと麻紐で封をして、明日の朝、西方向へゆく先行の誰かに託そう、と思う。
――ご忠告、どうもありがとう。けれどわたしは、逃げないのよ。
ナイアルのぎょろ眼が脳裏に浮かぶ。ずうっと前に言われた言葉が、今もエリンの胸を、あたたかく燃やしてくれている。
――お前はここんち、テルポシエの女王だ。お前にしかできない、正しいことをしている。そのまま行け、迷うんじゃねえ。
ふんっ、と満足の鼻息を鳴らした。




