213 空虚九年目19:黒羽の女神、声音の魔術師に出会う
同日、夜。
一刻ほどで戻ってきた女神と無事に合流できたミルドレは、きままに歩を進め、立ち寄った村落で馬と荷馬車を現金に換えて身軽になる。
ガーティンロー領を越えてフィングラス領に入った所で、山の道を外れ、野宿を決め込む。人の絶えた集落跡地、廃屋があった。小さく火を起こしてお湯を作る。アンリが持たせてくれた糧食、干し肉とがちがち固ぱんを食べた。
穏やかな表情のミルドレを見て、女神はそうっとビセンテのことを打ち明けた。主に桜桃をもらったという部分。
「お供えくれるなんて、さすがナイアル君のお仲間ですね! 良かったじゃないですか」
予想に反して、ミルドレはちょっと驚いたものの笑顔である。
『えっと……でもほら、ナイアル君は見えてなかったじゃない。ビセンテには見えてたの。あの調子だから話はできなかったけど、たぶん聞こえてもいたと思う』
「うーん……」
その辺に生えていた香水山薄荷を入れて、香湯にしたのをすすりつつミルドレは首を傾げた。
「ほら、どうぶつ達には黒羽ちゃん、けっこう見えて聞こえているじゃないですか」
『そうね』
「その線で、野性的な人なら、案外聞こえて見えやすいのかもしれませんよ」
『ほー、なるほど』
「ビセンテさんは根はいい人なんでしょうけど、どっちか言うとけものに近いような部分がありましたからね……」
――それを言ったら、ミルドレはばりばりの文明人なんだけど……?
またしてもわけがわからなくなり、女神も首をかしげる。
「でも、良かった。きっとまだまだいるんですよ、この世には。黒羽ちゃんのことを見て、聞こえる人が」
ミルドレの優しい顔に、ちりちり虹髪に、炎の灯りがあたって揺らめく。
「……さわれる人間の男性が、私以外にいるって言われたら、それこそミルドレ卒倒しますけど」
――うぐうッ。
♪ 俺はイリーの土地うまれ きれいなあの子を恋に誘おう
低い声で、ミルドレはいつものおはこを歌い始める。歌いつつ片手を伸ばして、手のひらで女神の頬に触れた。
♪ イーレにいい土地もってるし ファダンの谷間の両側だって
何度聞いても素敵な声、すてきな歌だ。いいなあ、女神がしみじみ目を閉じた――ところで、ミルドレはふとやめた。
「……」
『……』
ふたりとも何も言わず、立ち上がる。ざっ、ミルドレは杯の中の湯を火にかけた。しゅうん、辺りが暗くなる。
崩れかけた石積み漆喰壁からすうと身を出して、ミルドレは周囲を見渡した。いつの間にか虫の合唱がやんでいて、月光だけがしらじらと廃村の草むらに落ちている。
「確かにいますね」
『一人よ』
自分達の感じたものの正体をつかみ損ねて、騎士と女神はすぐ近くに寄せた顔を見合わせた。
人間が一人、ひそやかに近づいてきている。悪意殺気は全くないけれど、こんな風に気配を隠せる人間って?
『ミルドレ、ここに隠れていて。わたしが静かに、あのはしばみの樹のあたりを見てくるわ』
騎士はうなづいて、壁の後ろ側で短槍を構えた。
すうっ……廃屋の周りにもさもさと茂るはしばみの合間を、女神は音なくぬっていった。
ふっっ。
急に、目の前に人影があらわれて、かの女は息を飲む。
「福ある夜を」
その人……その男は、すばやく言った。
どきどきっとしたその勢いで、女神は後ろに向かって浮すさぶ。そのまま、木の陰に隠れた。
葉っぱの合間から透かし見る、ぐうんと大きな男だ。くるっと丸い頭にいかつい体つき、もこもこした毛皮みたいなのを着ている。手にしているのは武器……いや、杖らしい。夜目のきく女神にも、なぜか顔がよく見えない。……顔に何かつけている?
女神はその場を、そうっと離れかけた。ミルドレを連れて、空へ逃げよう……。
「待ちなよ、めんこいちゃん」
『!』
ぎくうッ、女神は全身を震わせた。
「黒い翼の、めんこいちゃん」
低い声、でも妙にひょうきんな男の声が、まっすぐかの女に届いた。
――まさか……。
「意地悪しねえからさ。ちっとおっちゃんと、話をしていかねえかい?」
ゆっくりと木陰から、身を出した。男は顔に手をやって、そこにかかっていた布を下げたらしい。笑顔でそこに立っている人。その瞳、……ミルドレと同じ蒼い瞳が、かの女を見ている。かの女を、映し出している。
「旦那も、一緒にさ」
ミルドレには、全て聞こえていた。だから彼は女神の背後、はしばみの樹の裏に素早く忍び寄って、外套の後ろに短槍を握っていた。
「おっ、来てくれた! こんばんはー」
男はミルドレに、朗らかに言う。
「……福ある夜を」
ミルドレも笑顔で言った。警戒心を最高度に上げている。
「ふたりでいるとこ、邪魔しちゃって本当にごめんね。でも、俺のしまで歌ってくれるの、もうずーっと待ってたもんだからさあ。はぁ、やっと再会できた」
「……?」
『あなた……、わたしの姿が見えるのね? で、聞こえる?』
「うん、ばっちり見えるよ。すんげえめんこいちゃんね! あ、美人つう意味よ?」
妙なおじさんだ! 女神は震撼した、ついでにかーっっとあかくなった。
「声もしっかり聞こえるし……、頭につけてる花のいい匂いもわかる。えーと、さわれはするのかな?」
男はひょい、と女神の翼の先っちょに手を伸ばした。すか。宙を切る。
「んー、触るのはむつかしいね。じゃあ……」
♪ 俺ぁ東の土地うまれ
どきーっっ! 女神とミルドレは同時に目をみはる。ええっっ?
♪ きれぇなあの子をとりこにすんのさ
歌いながらおじさんは、大きな手のひらを女神の頭にのせた。
ぽん!
「うん、さわれもする」
にこーっ、おじさんは笑って、なぜなぜ女神の頭をなでた。
その下、女神は横を向けなかった。見なくても感じる、笑顔を凍りつかせたミルドレの殺気が猛り狂っている! こわいッ! ここ十数年で、たぶん一番怖いミルドレだっ!!
――ミルドレが四十年かけてたどり着いたとこへ、このおじさん……会って数分で、……
「外で立ち話もなんだし。その辺入って、火おこさない?」
「……わたくし、ミルドレ・ナ・アリエともうしまーす。あなたさまは」
心配になるほど心拍数を上げつつ、ミルドレが低く声を絞り出している。対するおじさんは、終始ひょうきんだ!
「あっ、俺はディンジー・ダフィル。ディンジーって、呼んでね!」




