210 空虚九年目16:ビセンテと黒羽ちゃん
ずーっと、ずーっっと昔の話である。
その年、始まったばかりの夏の定期市。テルポシエをぐるっと囲む市内壁と、さらに高い市外壁との間に、様々なものを売る人買う人、ずいぶんな人混みができていた。
夏と言ってもどんより曇り空、時々風にまじって雨がぱらつく日だった。行き交う人の流れから少し外れて、花壇の上にビセンテはぶすっと座っていた。
――かあちゃあああん!
声に出して叫びたいのはやまやまだったけど、そうしなかった。
まちでは、大っきい声でどならないの。叱られちゃうからね、母はそう言っていた。ビセンテ自身は誰かに叱られても平気である、自分じゃない誰かの都合でぎゃんぎゃん言われて、うるさいだけだ。
けれど、自分のせいで母が誰かに叱られるのはかわいそうだ、と思ってもいた。テルポシエに来たばっかりの頃だから、六歳かそこいらである。
もの心ついた時からずっと、ビセンテはおばさんの家でぼーっとしていた。めしは食わせてもらえたけれど、病気もちのおばさんはビセンテにほとんど話さなかった。だからめしの時分と夜以外は、ずうっと外に、家の裏手の森山の中にいた。ひたすら、母を待っていた。
待ってはいたけれど、母は来てもじきに再びまちへ行く、だからまた別れることになるのも知っていた。だから彼にとって、うれしいことはかなしいことでもある。どういう気持ちで待っていたらいいのかわからなくて、もうその頃からぶすっとした顔でいるのが普通だった。
ところがほんの少し前、母は一緒に行くのよ、と言った。ようやく揉み療治師になれたから、テルポシエのうちで暮らすのだという。こりゃすごい、夢じゃあない、荷馬車に揺られてやってきたまちの中には、人がこんなに、こんなにたくさんいる!
てならいと言う場所、あるいは狭っくるしい汚い家の中では、やはり以前同様ぼーっとしていればいいらしかった。いいのだ、夜になれば母は必ず帰ってくる。ビセンテはうれしかった。次に来るかなしいおまけを考えなくていいのが嬉しかった。
母も恐らく、嬉しかったのだろう。だからちょっと浮かれてしまったのだ。市の立つ日、ビセンテの手をしっかり握って出かけて行った。おいしそうなものを買い込み過ぎて、両腕に提げた布袋がぱんぱんに膨らんだ。手を繋げなくなった。
――ぜったいぜったい、はぐれないでね。ついてきてね。
そう言われても、はぐれてしまった。ビセンテは周りをはしっこく行ったり来たりしてみたけれど、母はどこにもいなかった。知らない人たちばかりが、どっさり行き過ぎる。だからビセンテは、その辺りで一番高い花壇によじ登って座った。
――かあちゃあああん!
もう何度めか、胸のうちで叫んでみた。
せっかくまちへ来て、夜を待てば母に会える毎日になったのに。次に会えるのがいつだかわからなくなってしまった、うれしさなしのかなしさだけになってしまった。がっくりして、人々の中に見慣れた母の姿を探そうともせず、うつむいた。
ふわん、
ビセンテが座る花壇の右脇に、誰かが座った。彼は見向きもしなかった。
『はぐれちゃったのね』
だいぶ時間が過ぎてから、隣のひとは言った。
『でも大丈夫よ。きっとお母さん、探しに来るわよ』
ちょうど母くらいの年の、女性の声だと思った。それでもビセンテは、そっちを見なかった。ひたすらうつむいていた。知らない人と話しちゃだめよ、と母に言われていたから。
『見つけてもらえるまで、一緒にいたげる』
また時間が過ぎて行った。母は来なかった。かわりにしゅーっと冷たい風が吹き始めて、ぽつぽつぽつ、小雨がビセンテに当たりはじめる。
『ちょっと、寒いね』
隣のひとが言って、もぞりと動く気配がした。ふわりと何かにつつまれた。
さすがに驚いて目を上げ、ビセンテは自分の周りを見た。黒いふかふかしたものが自分を抱いていて、それが雨と風から彼を守ってくれている。
『小雨が降って、やんで、照って。実にテルポシエらしいお天気ね』
そーっと右を見てみる。女のひとの横顔が、黒いふかふかの中に見える。
『でもわたし、こういうお天気だいすき』
そのひとはビセンテの視線に気づかず、低く優しい声で続けた。
黒いふかふかは、どうも女のひとの背中につながっているらしい。大きな、……ばかでかい黒い翼だった。こんな大きな鳥の羽も、背中に翼をくっつけた女のひとも、ビセンテは見るのは初めてだ。と言うよりテルポシエには、彼の知らないものがあふれている。まちにはすごいのが色々あるのだな、とビセンテは思った。
それにしても、あたたかいふかふかは、ものすごく気持ち良かった。彼はそこに寄りかかって、安心した。
雨はさあっと通り過ぎて行って、ビセンテと市の上に青空が広がる。きらきらした陽光が彼の顔にあたった。
『ああ、ほら』
女のひとの声に、ビセンテは目を上げる。市外壁にある門の向こう、うすく虹がかかっている。
『雨の後の、いいもの。わたしの大好きな虹』
ふふふ、そのひとはビセンテに笑いかけた。
「おやッッ。ぼうや、きみ」
ふっと脇の方から、声をかけられた。女のひとはそっと翼をおろした。
明るい緑色の外套を着たおじさんが、彼に問いかけている。
「きみ、ビセンテかい」
何で知ってるんだろうと思ったが、うなづいた。おじさんは後ろを振り向いて、どなる。
「おーい、いたよう! 坊やが、いたよう!」
両手に荷物を提げたよれよれの母が、転びかけながら走り寄ってくる。
ぜえはあはあ、その場に手提げ袋をどさっと下ろして、うわーん! 母はビセンテを抱きしめて泣き出した。
「良かったねぇー」
おじさんが言う。
『巡回さん、ごくろうさま! 何だかお母さんの方が、迷子になってたみたい……』
女のひとはふふっと笑って、母の両腕のなかのビセンテの頭、つむじ辺りにちゅうと接吻した。
『きみの声、ちゃんと聞こえたよ、強い子ちゃん。これからも優しい、強い子でいてね』
言うと、巨大な翼を羽ばたかせてふわっと宙に浮き、きらきら輝く陽光の下、虹のかかった淡い青色の空のなかへ飛び込んで、行ってしまった。
巡回騎士のおじさんに言われ、母は荷物をわけて、軽い方をビセンテが持った。
あいた方の手を握って、母とビセンテはもうはぐれなかった。
・ ・ ・ ・ ・
「てめえか」
口の奥深くで呟かれた言葉は、誰の耳にも触れなかった。
気付くのが遅れたのは、記憶の中の黒い翼が、彼をくるむばかでかさだったからだ。いや、と彼は思い直す。そう言えば自分も、相当にでかくなったのだ。女は元々こんな、小っさいやつだったのである。
音もなくそろりと上げた右手が、自分の頭に巻かれた細い腕に触れる。
ビセンテは、むくりと上半身を起こした。
がこッ! アンリが、口を四角く開けたのが目に入る。
「え、ええッ!? 幽体離脱? いや違う、なまみだッ」
「……止血、完了」
ダンがぼそりと言った。
「ああ、良かったですねぇー! ……って、あらら?」
ずぼッ! ビセンテは左脇腹に刺さっていた、くそいまいましい短剣を引き抜いた。ぷしゅッ。当然だが血飛沫があがる。
「うぁらららららららぁ早い早い早い早いぃぃッッ」
「な――――ッッッぷ!!」
ミルドレのうろたえ早口言葉に覆いかぶせるようにして、アンリがどこぞから取り出した分厚い布を、べちんと血飛沫に押し当てる。
『ねつぴたーッッッ』
その上から、女神の小さい手がさらにぺちんと貼り付いた。さっき使い残していた、ゆるく輝く熱くずの寄せ集めが、その手からビセンテの脇腹に浸透していった。
結局、アンリが最後に押し当てた食卓掛けを広げてから腰にぐるぐる巻いて、一番身長の近いミルドレに肩を借り、ビセンテは立ち上がった。




