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海の挽歌  作者: 門戸
テルポシエ陥落戦
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21 テルポシエ陥落戦1:エリンとウルリヒ

挿絵(By みてみん)




「……船がもう、あんまり入ってこなくなったね」



 湿っぽく冷たい風を頬に受けながら、少女は言った。


 季節は今、静かな死の中へと移ろおうとしている。灰がかった空、鈍色の水平線、両手のひらをのせた柵壁の手すり部分は石灰岩。視界すべてから、色という色が失われてしまっている。


 それでも彼女は、特に寂寥を感じなかった。


 空っぽの港とそこにそそり立つ灯台、こまごまと並び立つ家々のかたまる城下。そういったものを高みから見下ろす城塞の深部で育ったエリンには、冬を迎える白黒だけのテルポシエも、見慣れた景色でしかない。



「もう、冬だしなあ」



 間延びした声が、背後から返ってきた。たぽたぽと水を注ぐ音が続いている。兄が香草の鉢に、水やりをしていた。



「これはもう、家ん中に移すか……。 手伝えよ、エリン」


「ね、ウルリヒ」



 振り返る。


 広い露台には、豊かに茂った大小さまざまの植木鉢が置かれていて、灰色の濃淡ばかり映していたエリンの眼は、いっぺんに鮮やかな緑色に染まった。



「今年の冬で、決着つけるんでしょう」



 ウルリヒは手元の鉢から視線を上げた。


 妹の言う決着とは、現在彼の国が直面している武装集団との包囲戦終結のことである。


 きょうのお昼はおさかなでしょう、そう尋ねるのと同じくらい軽く問うた妹に、兄もまた気負うことなく答えた。



「おうよ」



 ふふっ、と顔をほころばせて、エリンは兄の側へ歩み寄る。



「この戦争が終わったら、久しぶりに航行がしたいな」


「ほんとだなー、ずいぶん長いこと行ってないよなー」



 何かを企むような上目づかいで兄を見上げつつ、エリンはにやりと笑う。



「それにね、お兄ちゃんもそろそろ、お嫁さんに目星をつけとかないと。あんまり忙しいのにかまけてると、すぐにおじさんになっちゃう」


「……」



 ウルリヒはエリンの小さな顔を、じろりと見た。


 純白の長衣に長羽織を重ねた立ち姿は白鷺しらさぎを思わせるたおやかさ、やはり純白の頭巾ずきんからはあかるく輝く白金の髪が流れ出ている。可憐なつくりの鼻や唇が均等良く整っているところへ、やたら意思の強そうなみどりの双眸が光る。某ひとりをのぞけば、ウルリヒがこの世で最も美しいと誇る存在であった。



「ま、いっか、それも。いいかげん俺も、あのむっさい野蛮人どもに囲まれてんのに飽きたしな」



 妹はにこにこしながらうなづく。



「でしょ。どこの都市に行こうか」



 弾む声が夢を計画しだしたところへ、かたりと踏み込んで来た影がある。



「失礼しまーす、陛下、姫様」



 露台の出入り口の所、半身だけをのり出して、壮年の騎士が佇んだ。



「あっ、ミルドレ。ごきげんよう」


「お早うございまーす、エリン様」



 柔和な顔でのほほんと言ってよこした騎士は、自分の着ているものと同じ草色の外套を手にしている。



「ウルリヒ様、そろそろ朝議が始まりますので。どうぞお召し替えを」


「ありがとう、ミルドレ」



 手にしたじょうろを石床に置くと、ウルリヒは外套を受け取る。


 それをぐるりと大振りに回しながら羽織りかけ、慣れた手つきで前の留め具を四か所はめた。


 父が亡くなって以来、ウルリヒが使っている広い居室を通り抜け、騎士ミルドレに続いて兄妹は廊下に出る。



「向こうには、大変申し訳ないんだけどよ」



 語尾が俗っぽくなったのを聞き掴んで、エリンはふっと兄を見上げた。自分に振り向けた話だ。



「今年の冬、潮流の停滞とともに一大奇襲を仕掛けてくるというエノの馬鹿の大作戦は、既に俺様の知るところ。ぼっこぼこに返り討ってやる」



 兄は、大衆的な話し方を好んで使った。


 両親がともに逝去してのち王位を継いで、イリー都市国家群“東の雄”テルポシエの元首となってからは、さすがに公の場ではそれなりの言葉遣いをしている。しかし、エリンはじめごく身内のものには、歯切れの良い下町調で話すのが常だった。



「ったくよー、いい年こいていきがってんじゃねっつの。老いぼれのエノの奴」


「もう、その辺にしときなさい」



 ミルドレが苦笑しつつ、振り返った。


 この人は、祖父と両親のもとで長く働いてきた騎士の子で、顔から仕草から性格まで、幼い頃に付き添ってくれたその優しい老騎士によく似ていた。


 ウルリヒが王位継承したばかりの頃は、謙虚に摂政役を担っていた。常に温厚で柔らかく、自分から出しゃばることは全くない。


 今だって、ウルリヒを朝議の場へ送り出した後は、自分は中広間の末席について他の騎士や文官の声に、じっと耳を傾けるのだろう。それでも若き王が目を向ければ、彼は変わらずそこにいて、賛同の眼差しを送ってくれる。


 いつも、どこでも、変わらずにそこにいて、見守っていてくれる存在だった。



「それでは、行っきましょう!」



 ミルドレは中広間の扉、ごつごつと黒光りのする重い取手に手をかける。


 朝でも薄暗いテルポシエ城の心臓部、左右にいる衛兵役の騎士の掲げた手燭に照らされて、ミルドレの豊かな縮れ毛がきらめいた。金髪とも赫毛あかげともいえない、不思議な色である。



「へっ。じゃあまた後で、昼めしん時にな。エリンちゃん」



 肩をすくめてから、兄はミルドレとともに、扉の内部へと吸い込まれて行った。


 くらい廊下にぽつんと白く取り残されて、エリンは踵を返した。



――別にわざわざ、念を押して言わなくたって。わたしには、わかっていてよ。



 この包囲戦は、皆が思う程には無謀ではない気がする。あまりにお馬鹿すぎる筋書、その裏に漂う何となくきな臭いものを、エリンは本能的に嗅ぎ取っていた。



――まあ、お兄ちゃんは、わたしや皆を安心させるのが仕事だから……。



 ちゃっちゃと着替えて、若い騎士見習たちの乗馬訓練にこっそり入れてもらおう、そう思いついて小走りになった。



――リフィはもう、来ているかな?



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