208 空虚九年目14:黒羽ちゃんの戦い
女神はものすごい勢いで荷馬車を御し、戦いの範疇から抜け出していた。
ふっと後ろの荷台を見る、ぐるぐる巻きにされた少年たちはちゃんと中に入っている。
荷馬車の御者役は、中年女性だったのだ。でっぷりかた太りのその女は、もしかしたら子ども達を安心させるために選ばれたのかもしれない。わかっていながら人身売買組織の中で保母をやっているなんて、この人もろくなもんじゃないわね、思いつつかの女はのりうつったのであった。
だいぶ離れたところで、馬を早足にゆるめる。かの女は、もと来た道を振り仰いだ。この辺に子ども達を隠して、自分も戦闘に戻ろうか。
馬に言葉をかけようとして、……ふと気づいた。
街道の東側、つまり穀倉地帯の方面から音がする。騎馬の一団が近づいているらしい。
――何!? これ……。
ものすごく嫌な感じがした。こんな夜更けに、賊が出やすいと悪名の高い危ない道をゆくだなんて……つまりこっちも賊集団だろう。
かの女は耳を澄まして、一団の人数を探る。二十数騎。賊でないなら、軍の小隊だ!
女神は馬を宥めなだめ、道の脇の木立の中へ進めさせる。荷台の中で子ども達は動かない。女の体を御者台に残し、女神はのりうつりを止めた。上空高くすっと垂直に飛び出すと、道の東方をねめつけた。
いた、八愛里ほど先にいる。ぐうんと飛んで近づいてみれば、立派な軍馬にとりどりの戦装束を着た、いかつい男達の集団だ。
少し上を飛んで観察しながら、女神は顔をしかめる。
ファダンかガーティンローの騎士団が、領地警戒で巡回しているのだったらいいのに……と抱いた期待は外れた。
――やっぱり、こっちも賊ね。皆と鉢合わせしたら大変、わたしがこの辺で食い止めよう。少なくとも、時間稼ぎにはなるわ!
そこでかの女はぐぐう、と夜空高く飛び上がる。空中二愛里の高さ、旋回しながら急降下を始めた。女神の黒い翼は強力な螺旋の風を作り出す、それは鋭い渦の槍となって、騎馬団の頭上にぶつかった!
――必殺技だけど、名前いわないわー! 聞いてくれる人がいないと、痛いからーッ!
ごうううううううう!
「うおッッッ」
「何だぁああッ」
「あ、うあーッ」
大型の軍馬たちは、必死に踏ん張って耐えた。上の男達も。しかし運悪く手綱を取りこぼしてしまった何人かが、吹き飛ばされて道脇の樹々や茂みの中に叩きつけられる。
『どうだッ』
すういッ、山道上にすたりと降りたって、女神は敵の被害状況を見る。半数以上が馬上で頑張っている。皆、頭を振ったり押さえたり……馬をなだめようとしている。
『ようしッ、次!』
ふわっと低く飛び立って、女神は騎馬団の中へ突き進んでいった。
『てあッ』
ぶぁしーん! 右の翼で、ある男の肩を思いっ切りびんた!
『ほぁたーッ』
ぼーん! 左の翼で、反対側のやつの脇腹に裏羽拳!
『わんたーッんッ』
のってくると、何言ってるか構わなくなるのは女神の常である! 聞こえる人の多かった大昔だったら、もうちょっと自粛していたかもしれない!
「ぎゃッ」「うわッ」 男達は次々に宙へ投げ出され、落馬してゆく。
『こーの調子ーッッ』
快進撃を続けるつもりが、八人ほどふっ飛ばしたところで、かの女はぴたりと止まった。
「マリューぅ。そこいろよ、手ぇ出すなよ」
「言わなくっても、後ろへ逃げるよ」
闇の中でもわかった。その男は巨大な雄馬の上から、かの女に向かって笑いかけていた。
次の瞬間、もやもやりっと大きなものがかの女の眼前にひろがった、どだんッ!
両の翼先端でかの女は受け止めた、とんでもなく長い戦闘棒の一撃!
ひゅうっと男はうしろへ退く。ももんがのようなたっぷりとした衣袖を、大きく翻して。
「おっ。ちょっと手応えあったっぽい! やっぱり何かいるよ、マリュー」
ぞくッ。女神は震撼した。しながら男の顔を見た、球技に没頭してはしゃいでいる少年みたいな表情だ、そこそこ年のいった奴なのに。左の額から目元下へ、大きな火傷痕のような痣の中に、笑いじわを作っている……!
「よッ」
ものすごい勢いで、男はかの女に打ちかかってくる。戦闘棒をぐるぐる回しては打ち、打ち込んではぐういと回す。その不規則な動きに、かの女は容易についていけない。人間にかの女が打たれるわけはない、触れることなどできないはずだとわかっているのに、女神は男の間合いに飛び込んでいくことが出来なかった。
『……!!』
初めて会うやつ。けれど良く似た奴を知っている、ウルリヒを背にして対峙した、あいつ……!
――ミルドレ、
その名を想ってかの女は宙に飛んだ。今の自分の目的は、どうにも嫌な感じのするこいつを倒すことではない。ミルドレと“第十三”の皆のための時間稼ぎなのだ。
――また、風を叩き送ってやろう!
そう思った瞬間、こちらを見上げる男と目が合った。
「こっそり襲っておいて、逃げるのかい」
翼の先にまでぎくりと雷撃の伝わるような、おそろしい声だった。笑っているのに。
「ということは、女なのかな? 俺はへんな女にばっかり、当たるなあ」
――見えていない。みえていない。……見えていない、はずなのに!
「風を作れるたぁ、すごいがな。あいにく、俺は嵐が得意なのさぁ」
――それなのに。この不気味な瞳、笑う視線から、逃げられない!
ひひひぃん!
女神が得体の知れない感覚に囚われて唇を噛んだその時、軍馬たちが一挙にいななき始めた。
「ギルダフ、やばいぞうッ。山犬が来た」
「はあー?」
気の抜けるような声を出して、男は脇に寄ってきた老人と、もう一人の男の方を向く。
「今、叫び声が向こうの西方から……。馬の制御がきかなくなりますッ」
「なんでこんなとこに、イリョス山犬が出るんだよう」
「俺らに聞くな、囲まれる前に引き返すぞッ」
「ちえッ」
「どうせ、商品引き渡しは向こうへ着いてからなんだ。俺らがこんなとこまで出張って警護なんて、そもそもが要らんお世話だ」
「それでこそ、上乗せぴんはね搾取になるんじゃねえかよう」
「山犬に、馬のけつ喰われてえかッ。じじいの言うことは聞くもんだぞ」
「へえへえ」
男達は恐慌をきたし始めた馬をなだめすかし、ふっ飛ばされた奴らをどうにか助け起こして相乗りにさせると、ぞろぞろ東方面へと帰って行った。
上空に浮く女神の耳には、森の奥からずうっとイリョス山犬の威嚇声が聞こえていた。
山犬、と便宜上表現してはいるけれど、イリョス山犬は大きさ以外、どちらかと言えば犬よりも人に近い獣である。頭もよいから、彼らは女神の存在をちゃんと憶えて、そして複雑な感情をもった。
とらわれていた母子を抱えてきてくれた、人間似の翼のある“めす”。そのめすが今夜は、多くの人間の雄に対峙して恐怖心を抱いている。助けられたのだからたすけてやろう、その思いで彼らは吠えまくった。
『ありがとう。本当に、ありがとうー』
声の方向、森の奥に向かって女神も叫んだ。
そうして急いで、隠した荷馬車のところに戻る。
ぐったりのびたままの、かた太り女の体に再びのりうつった。馬を励まして、街道西方向へと向かう!




