200 空虚九年目6:陽光の湖畔!黒羽ちゃんとミルドレの夏
「ははははは……」
『ははははは……』
ガーティンローとファダンの国境地帯を、ぐーっと北に来たところにある、湖である。
短い盛夏の陽光のもと、きらきら輝く水面をぬってゆく、男女の姿があった。
「はははは……」
金髪とも赫毛ともつかない、不思議な髪をぺったり貼り付かせた頭だけ出して、のほほん余裕顔でゆるゆる泳いでゆく壮年の男。
『はははは……』
その横を、下半身だけ水につけた女がずざざざざー、と引き波をたてて進んでゆく。手足で水をかくのでなし、背中からにょっきり生えた巨大な黒い翼を羽ばたかせて、前に進んでいる。これを泳いでいるとは一般的には言わないのだろうが、本人……本神は真剣に泳いでいるつもりだった。
ずいぶん長いことそうしてから、ふたりは湖のほとりへ戻った。
『気持ちのよい湖だわ、ミルドレ……』
「夏って良いですねえ、黒羽ちゃん」
『乾燥いくわよー』
「はーい」
ばふーん! 身構えたミルドレに向かって、黒き翼の涼風を送る女神! 騎士の虹色ちりちり髪がたなびいて、水しぶきがふっ飛んだ。
「ありがとうございまーす」
下穿き一丁のまま、草むらに広げた大きな手巾の上にぐでーんと寝転ぶ騎士を見て、女神は言った。
『素敵なお日さまだけど、そのまんま直にあたりすぎるのは危ないわ』
「おや、本当ですね」
騎士はむくりと起き上がり、袋から出した軽ーい麻のねまきをひっかけた。ものすごく簡単なつくりの麦わら帽子もかぶる、その下にできた陰の中で蒼い瞳が輝いている。
「昨年はうっかりして、こんがり騎士になってしまったのでした」
『テルポシエ人はお肌が薄いのよね。日に焼けると痛くなるの、気の毒だわ』
騎士の故郷の夏は、もっと涼しい。降って、照って、一日中季節がくるくる変わるようなところだ。肌を灼くような強い日差しも、めったにあたらない。
「黒羽ちゃんは大丈夫なんですか? 本当に……」
隣に敷いた緑の棕櫚もようの手巾の上、女神は思いっ切り羽をのばしている。身にまとっているのはいつもの白い麻衣、ミルドレ以上に弱そうな乳白色の肌がまぶしい!
『わたしは平気なの。だてに長いこと、沙漠をうろついてなかったわよ』
「でしたね」
『それにしてもミルドレは、ほんとに泳ぐのうまいわね! いっぺん水に入ると、おさかなみたいになるわ』
「ふふふ。騎士になる前は、冬以外しょっちゅう泳いでましたから。でも黒羽ちゃんも、かなりうまくなりましたよ!」
飛べる女神に、泳ぐ必要はないのである。だからして水に浸かるという発想そのものが、数千年来かの女にはなかったのだが、ある夏ミルドレにつられて湖に入ってみたところ、ものの見事に溺れて沈んだ。
『空中と全然、勝手が違うじゃないのようー!』
慌てて助けに来たミルドレの背中にしがみついて、かの女はわめいた。当たり前だ、同じだったら魚は宙を泳いでいる。
以来、足首をつけるところから始めて、今年は腰まで浸かれるようになったのである! そして、羽ばたいて進む。
繰り返すがこれは泳いでいない。しかしほめて伸ばす騎士道精神のミルドレとしては、大いに評価すべき進歩なのであった。
『最近のテルポシエの人って、みんな泳げたの?』
くるんとうつ伏せ、肘をついて少し身を起こしながらかの女は問うた。
「いえ、私は少数派ですよ。夏のあいだ行ける田舎があって、近くに湖があるような場合でなければ、貴族も平民も泳いだことのない人の方が多かったんじゃないかな」
『それなのにミルドレは、毎日海で泳いでいた……。何故』
「いやー、遊んでくれる友達もいなかったもので」
『ひょっとして……例のことと、関係しているのかしら』
「?」
『ほら……わたしの“本体”が、わけのわからないことを言ってたでしょう?』
「ああ、人間じゃないということですか。変ですよね、ミルドレばりばり人間ですよ」
『そうよねえ。海のどうぶつが少し入っているだなんて……、ほんと摩訶ふしぎもいいとこだわ?』
自分自身が魔訶ふしぎの親玉みたいな存在であることは当然のように流して、女神は言った。
『あんまり長いこと眠らせっぱなしだったから、劣化してどこかおかしくなっちゃったのかしら……わたしの“本体”。だからあんな風に、……』
「黒羽ちゃんは年を追うごとに、美しくなる一方ですよ。進化してますよ」
『ぐうっ、ありがとうミルドレ……』
「“あれ”が出てきたのは、黒羽ちゃんのせいじゃありません。あなたは何も、間違ったことなんてしてませんもの。……私が考えるに、“あれ”は」
かの女から視線を外し、すっと前を見たミルドレの眼差しは冷ややかだった。
「あと先を考えられないどこかのお馬鹿さんが、呼び出してしまっただけでしょう。けれどすぐに引っ込んだということは、そのお馬鹿さんは食べられちゃったのでしょうね」
『え、ええ……』
少しうろたえながら、女神は答える。気がかりがいっぱいあるのだ。
“間違った者”が死んだだけで、怪物が再び眠りにつくことはない。あんなに早く、しかも自分の介入なしに巨人が鎮まるだなんて、これまでに一度もなかったのに。誰かが、何かが自分の代わりをつとめた、というのだろうか? それとも、赤い巨人は今でも目覚めている……?
「これで皆さん、人間も少しは学んだかもしれません。見えないものをないがしろにすると、とんでもないことになる、と」
『ミルドレ……』
「この世の中、見えないものや聞こえないもの、触れられないものの方が多いじゃないですか。それなのに、見えないからそこにはない、見えないものは信じないと決めつけてしまうのは、残念なことです」
女神は苦笑して、首を傾げる。
『ミルドレ、あなたも人間の一人なのよ。そしてわたしはずーっと、人間の側についているの』
「うーん、そうでしたね」
『……それに、わたしのことに気づかなくっても。見えないものを、何とか形にしようって一生懸命に努力している人たちもけっこういるわよ』
「ええ……」
『そういう人たちの心は、それこそわたしにも誰にも見えはしないけれど。きっと、とってもきれいで、すてきなのよ』
騎士は笑った。いつもの優しい瞳に、戻っていた。
かの女は、ミルドレに手をさしのべる。
『ね、歌って。ミルドレのおはこ』
「はいはい」
背すじを伸ばしながら、彼も手をさしのべた。
♪ 俺はイリーの土地うまれ きれいなあの子を恋に誘おう
重なった手と手のあいだに、たしかな熱がうまれる。
♪ 持参金なんざ要らないさ 俺は豊かだ きみがいるなら……
やさしい余韻が薄れて、そよぐ風だけが辺りを包む。
手を繋いだまま、ふたりは苦笑した。
『聞こえたんじゃない、ミルドレ? あなたここの所、すごく耳がよくなってきてるから』
「ええ……。でも、弱者って感じじゃないですよね?」
『弱くはないわね。でも何と言うか……純粋なるおばかちゃん達だわ。そういう意味では弱者と言えるかも』
「……弱者が困っているのなら、騎士と女神の出番ですからねえ」
『行くっきゃないわね!』
「行っきましょう。まあ、道案内するだけでしょうし……」
『そう? 何かいいこと、あるかもしれないわよ!』




