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海の挽歌  作者: 門戸
精霊使い
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20 精霊使い9:未来の喪失

 さほど荒くもないそのせせらぎは、やがてあの湖に注ぎ込んでいる。


 その川尻のところに流れ着いていた小さな体を、釣りの老人が見つけた。たまたま泳ぎに来ていたヴィヒルとアランとが叫びを聞きつけ、引き上げたのだったが。



「薬翁のところに運んだの」



 それ以上のことを、アランはもう告げられなかった。


 ニーシュは女ふたりに構わず、陣営まで全力で駆けに駆けて、目指す天幕へと転げ込む。


 何組かの目が、こちらを見た。


 寝台の上に、毛織物の包みが載っている。


 すぐ側にうずくまっていた者が静かに立ち上がり、場所をあけた。ヴィヒルだった。まだ濡れたままの髪が、ぺたりとしている。


 ふらふらと近づくと、毛布の中に目を閉じた小さな顔がのぞいていた。


 最後に見せたふくれっ面は、どこへ行ってしまったのか。


 眠るように安らかな面持ちで、静かに、あまりに静かに、娘は死んでいた。


 ヴィヒルの手が肩に置かれ、ようやく追いついたアランとイオナが入口のところで慟哭を呑み込んだ時、ニーシュの心は現在になかった。


 誰もが彼をイニシュアと呼んでいた時代へ、飛んでいた。




 ・ ・ ・ ・ ・

 ・ ・ ・ ・ ・




 冬の訪れの直前、最後の収穫とその後始末を助けてくれるかのように、好天の続く時がある。


 だいぶ短くなった日を惜しんで野良に出、イニシュアは働いた。弟二人を先に家に帰し、ようやく道具小屋の戸を閉めた時、頭上にはすでに晩秋の一番星が瞬いていた。


 そうして母屋に戻ってみると、明かりも灯っていなければ、煮炊きの匂いも漂っていない。あいつらはまたさぼりか、と顔をしかめた。


 イニシュアは幼い頃に実母を亡くしていた。父は再婚したが、継母は人里離れた農地での生活になじめず、村で小商売をしていた。そこへ父が通っていたわけだが、やがて彼女も亡くなり、弟二人を引き取ることになる。


 父の存命中はまだ良かったが、次第に若者二人は手に負えなくなった。荒れ地を耕すことに希望なんて持てない、自分たちはこんな田舎に暮らすようにできていないと言うが、一方で父の遺産の分け前をあっさり手放す気にもなれないのだ。話も合わなければ気も合わない弟たちとの生活に、イニシュアはひとり苦しんでいた。


 けれどその時のイニシュアには、大きな希望があった。


 夏、大量に摘んだ黒苺を村の蜜煮屋へ持って行ったら、そこの孫娘が親身になって話を聞いてくれたのである。以前からお互い顔は見知っていたが、そこで初めて彼女の真面目さ、優しさに触れて、イニシュアは胸の中があたたかくなった。



「きっと、何かしらの解決策があるはずだから」



 元気を出してね。そう言ってくれた、そばかすだらけのその顔は美しかった。


 こうして、イニシュアとエンマは恋をした。


 村の収穫祭に出かけた時は、終始二人で踊って(と言うか、ひたすらエンマが踊り方を教えてくれたのだけど)、笑い転げながら美味しいものを一緒に食べた。


 彼女と二人で生きられたら、どんなに自分は幸せだろう。


 正直にそう言うとエンマは真っ赤になって、自分もそう思うと答えた。間近で見ると、彼女の両耳に小さな、赤い石の飾りが光っているのに気付いた。



「またね、エンマ」


「会いに行くわ、イニシュア」



 そう言って別れたのが、ほんの少し前。



 ――荒れた相続地はそっくり弟たちに与えてしまって、俺はエンマのいる所で、いちから自分の人生を始めよう。



 具体的な部分はともかく、イニシュアの心はすでに決まっていた。



 ――エンマが俺を好いてくれるのなら、他には何も要らない。俺にはエンマさえいれば、それでいいんだ。



 足を洗おうと、桶に手をかけた時である。薄暗い台所の戸ががたりと開いて、下の弟が出て来た。



「よッ、お帰り、兄ちゃん」



 酔気を含んだ声は、ろれつが回っていない。



「……何やってんだお前、素っ裸で。食事の用意もしないで呑んでるのか」


「いやいやいや、だってさあ、つまみが歩いて来たんだから、ねえワジャ兄ちゃん」



 ひゃはははは、と耳障りな笑いを上げて、弟は後ろを振り返った。



「イニシュア兄ちゃんも食えば。けっこういけるよ」


「馬鹿、何言ってやがる。お前はげてもの趣味か」



 部屋の中から聞こえてくる上の弟の声に混じって、別の気配があるのを感じ、イニシュアは何気なくそこを覗き込んだ。


 上の弟はもう一人同様に素っ裸でしゃがみ込み、酒壺から直にあおっている。そのすぐ脇の床に、うごめくかたまりがあった。


 窓からの明かりはごく弱く、すぐに判別ができなかった。



「田舎くっせえ女だよ。腹の足しにもなんねえ、つまんねえ」



 頭の上で手を縛られ、ぼろきれで口を塞がれ、裸に剥かれた下半身をかたく閉じたまま震わせながら、大きく見開いた目でエンマが自分を見ていた。



 その直後の行動を、イニシュアは克明に憶えている。


 力任せに二人を台所に引きずり出し、ひたすら殴った。恐れをなした下の弟は、小便を滴らせながら母屋の外へ逃げ出したが、道具小屋から草刈り鎌を持って戻って来た。それをもぎ取って、喉元に突き立てた。


 這い逃れようとする上の弟を捕まえ、水瓶の中に頭を叩き込んだ。ようやく抵抗がなくなって、家じゅうが静まり返った時、暗がりの中でイニシュアはエンマを探し当て、腕の中にかき抱いて号泣した。



「この間の収穫祭の時ね、話してくれてすごく嬉しかった……。あなたがどこに住んでいるのかわかって、ようやくここまで来たのに。あの人たちに先に見つかってしまって……馬鹿だよね、わたし」



 黒苺の茂みの中に二つの死体を埋め、ありったけの金目のものをかき集めると、農耕馬に荷車を引かせて、イニシュアは故郷をあとにした。毛布でぐるぐる巻きにしたエンマは、荷にまぎれて震えていた。


 獣ふたりに捕らわれた際に顔を殴られ、したたかに地べたに打ちつけられたせいで、エンマの顎は変形し、脚を引きずらずには歩けなくなっていた。彼女もまた、もといた村にはもう戻れない。


 通り過ぎる幾つかの集落で薬師に診てもらっていたが、彼女は目に見えて衰えていった。それでもエンマは快活にふるまおうとし、イニシュアをいたわり続けた。


 地理も何も知らぬまま、若い二人は徐々に持ち物を少なくしながら、やがて小さな山間の集落にたどり着いた。そこの産婆が、出産を手伝ってくれた。



「あの子を、あなたの娘にしてほしい」



 誰の子なのかわからない――、


 七か月のあいだ、お互いに口にできなかった問いには、エンマ自身により決着がつけられた。生命を振り絞ってエンマは娘を世に送り出し、ひと月後にその地の一部になった。


 土に還るエンマの片耳から赤い石を外し、自分の耳にはめ込んで、イニシュアは赤ん坊を抱いて歩き続けた。


 両方の祖母から名をとったシュオル・ガーラは、文字通り彼の生きる理由となった。


 シュウシュウ、とあだ名で呼び掛けて振り向くその顔は、見れば見る程に自分そっくりだ。そして、エンマの娘であることは間違いない。


 結局は、神々あるいは妖精でもなければ、知りえないことなのだ、……時々そう思うようになった。



 ――この娘と一緒に幸せになれば、きっとエンマは喜ぶ。



 だからこそエンマという過去を忘れず、イオナという現在と生き始めた矢先だったのに。


 シュウシュウという未来を失ってしまった。


 さっき、飛び出したシュウシュウをふん捕まえて、炊事場の婆さんに引き渡してさえいれば、こんなことにはならなかったのに。


 いや。  待て。


 そもそもあの日、さっさと帰ってさえいれば、エンマは弟どもに会わず、あいつらも殺されることはなかった。



 ――俺だ。  俺じゃないか。



 何故俺は二人を、シュウシュウとエンマを救えなかったんだ??




 ・ ・ ・ ・ ・

 ・ ・ ・ ・ ・




 湖のほとり、なだらかな丘になった部分に、小さな墓標が夕陽を受けて佇んでいた。


 周りには花束がいくつも置かれ、しおれている。木組みの墓標にも、まだ新しい花輪がかけられ、微風に揺れている。


 もう一つ、墓標にぶら下がったものに気付いて、メインは足を止めた。


 近づいてよく見ると、あかくつややかに光るとんぼ玉が、革紐に通して吊るされていた。



「……お下がりを喜ぶ女の子は、いないと思うけどな」



 小さく呟く。


 埋葬の際、薬翁に付き添っていた彼は、その小さな姿を垣間見ていた。


 フィンバールと同じ、女児用の死に装束を着て、柔らかい毛布に包まれ、赤ん坊のように土に抱かれていったのだ。


 メインは微かに、ある旋律を口ずさみ始めた。


 知られていないその古い挽歌は、静まり返った湖面へと吸い込まれていき、やがて深いところの水をふるわせた。



♪… 永遠にかわらぬ ぬくもりを


 わたしの胸の 中にのこし


 離れゆく いとおしいあなた







※ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。


これより「白き牝獅子」の集中更新に入ります。


「海の挽歌」本編の次回更新は11月12日、日本時間0時・12時の一日二回更新になるので、どうぞご注意ください。この機に、サイドストーリーである「白き牝獅子」もご一読いただければ幸いです。(門戸)


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