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海の挽歌  作者: 門戸
ユカナの略奪
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02 ユカナの略奪2:海から来たもの

 浜生菜はぶいの草は、海からの風がよく当たる場所にしか生えない。


 イオナとヴィヒルの住む集落の近くだと、浜を見渡せる高台に摘みに行くのが定番だった。風に含まれた潮っ気のせいで、柔らかい葉にはわずかにうまみがある。山羊や羊たちも好んで食べたし、汁物にもよく入れられた。むしろ好物なはずのその丸っこい肉厚な葉を、イオナはのろのろと摘み取る。


 どうしてあんなに母を怒らせてしまったのか、原因の“悪い口”、自分の言った言葉はとっくに忘れていた。自分に向けてぎらぎらと怒りを燃え立たせていた母の、あの赤さ・・だけが、憎々しく思い浮かぶ。



「イオナは、悪くないもん」



 草地にしゃがみ込んだまま、言い放ってみる。少し後ろの方で、黙々と浜生菜はぶいを採っている兄が何も言い返さない事はわかっていた。


 イオナは、ヴィヒルがぶたれるのを見た事がない。両親だけじゃない、村の誰からもヴィヒルは叱られた事がなかった。静かで素直で、礼儀正しくて優しくて、器用で力持ちだ。いつも誰かのお手伝いをしているから、他の子とあんまり遊ばない。アランがお化けや妖精の話をする時だけは、必ず皆の輪の中に入って聞きいるけれど。


 ヴィヒルは生まれた時に、母のお腹に声を置いてきたのだと、父は言う。あまりに美しい声だったから、妖精への贈り物にしたんだ、と。贈られた妖精はよっぽど嬉しかったんだろうとイオナは思う。だからヴィヒルはこんなに良い子になって、みんなに大事にされて、母を怒らせる事もないのだ。



――それに引きかえ、……。



 ぶちぶちぶち、とイオナは浜生菜はぶいの葉っぱを続けざまに引きむしる。わざと乱暴に。


 良くわからなかった。自分はどうしてこんなに、叱られてばかりいるんだろう?


 髪をくしゃくしゃにしても、服を汚しても、大きな音を立てても、骨付き肉を食べても、とにかく何をしていても叱られる。母が側にいなければ、隣のおばさんやおばあさんや、誰かしらがお小言を言ってくる。そんな事をしていちゃだめだよ、もっと丁寧になさい、はしたない、云々……。


 イオナは幼すぎて、どうして皆がこぞって色々な事を言ってくるのか、さっぱりわからなかった。ただひたすら、うまく立ち回れない自分というれものに、もどかしさを感じていた。籠に入れられた鶏はよく見るけれど、ちょうど自分の身体が、せせこましく動きを封じる檻みたいに思える。



――でも。 



 じゃあ仮に、何もかも皆が望むようにこなせたとしたら。その先イオナには、何か良いことがあるのだろうか?


 そう言えば、今朝もそうだった。


 家のことを黙々とこなす自分の母、髪も肌も顔のつくりも、いちいちそっくりだと皆に言われるその母が、わらぶき家の裏側に吊りわたした縄に、大量の洗濯物を干していた。たらいの中の汚れものはなかなか減らなくて、力を入れてこすりながら、母は溜息をついていた。


 それがものすごく不幸そうに響いたものだから、イオナもふと思ったまでなのだ。



「あたしは、おかあさんみたいになりたくない」



 そっくりなだけに、想像するのは簡単だった。大きくなって、あかい髪を長く伸ばして、お粗末な筒っぽ服を着て、背中をかがめて、溜息をつきながら洗いものをしている女。それが未来の自分なのだ。


 はっと振り向いた母の瞳には、瞬時恐怖のくらさが宿った。けれど、それはすぐに怒りに取って代わった。



「何なの、一体」



 決めつけたような強い口調にどきりとして、イオナは思わず口走ってしまった。



「おかあさんがしてるの、つまんないことばっかりじゃん! あたしはそんなの、したくない。洗濯とか、うちのこととか、全部なくなっちゃえばいい」



 悪気はなかった。ただ、感じたままを口にしただけなのに、思い切りぶたれた。割に合わないと思う。



「おかあさんは、ばかだ。わからずやだ」



 今さらながら怒りがこみ上げて来て、イオナは母の悪口を続ける。



「あんなおかあさんなんか、いなくなっちゃえばいい」



 ぼこん、と頭に衝撃が走る。


 兄が籠の底で、イオナの頭のてっぺんを軽く叩いたのだ。見上げると、兄はふるふるっと首を振る。



≪そんなこと、言うもんじゃないよ≫



「だって!」



 ごらん、と今度はやさしい視線が籠の中に降りる。ヴィヒルは鎌を持参していて、株ごと取った草で籠の中はいっぱいだった。本来なら、罰としてイオナが摘むべき浜生菜はぶいの葉っぱ。


 大きな手が伸びて、イオナの手のひらをすくい取る、籠の上に引き寄せた。むしりかけていた葉っぱが、ぱらぱらと中に落ちる。



≪帰ろ。一緒に謝ったげるからさ≫



 母と違って、皆と違って、ヴィヒルはいつだってイオナに優しいのだ。


 他の何かになれと言わず、そのまんまのイオナを大切にしてくれる兄だった。


 つないだままの手を引っ張られて、イオナは立ち上がる。



「嫌だよう、帰らないよう」



 自分に向けられた兄の目線はやわらかい。その中に溶け込んだように、怒りや悔しさはどこかへ行ってしまった。


 代わりにわけのわからないかなしさ、じんわりしたものが胸にあふれて、イオナは思わずべそをかきかける。




 その時。


 ふっ、 と兄が顔を上げた。


 浜生菜はぶいの生い茂る草地、この高台の向こうは切り立った崖だ。下の方に集落のある丸みがかった丘地、その先に小さな湾が浜辺まで見渡せる。兄の視線をたどって、イオナもまたその光景を見た。いち、に、さん……。


 見た事もない変てこりんな形の船が三艘、内湾を突き進んでくる。


 するどく突き立った舳先は、ちょうど鎌首をもたげて威嚇している大蛇みたいだった。……海にいる蛇? うみへび?



「あれえ。 ……なに、あの舟?」



 村の人々が漁に使うのは、三人乗るのが精いっぱいの小さなものだ。けれど今見ている船には、一体何人乗れるのだろう? びっくりするほど大きく、長く見えた。



「おとうさんたちじゃない……ね?」



 答える代わりに、ヴィヒルの手がイオナの手を握りしめる。力の込め方がおかしい、兄の不安をイオナも感じ取った。



「にいちゃん? どうしたの?」



 有無を言わさない勢いで、繋いだ手が引っ張られる。そして二人は駆け出して行った。

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