190 冷々13.カヘル若侯、ばつ二になる
「……一緒にいるのが全く楽しくないから、というのが一番の理由だそうですよ」
デリアドに帰還したキリアン・ナ・カヘルを待ち構えていたのは、つらつらきれいな筆致でしたためられた離婚届の皮紙であった。
出て行った妻と、その両親らの署名が既に入っている。
「……」
卓の上に置かれたその届をじっと見つめてから、顔を上げた。
母屋の居間。卓子の向こう側に座る父、カヘル老侯は隣の母同様、遠い目に冷え切った面持ちである。
「……キリアン。あなた、一度向こうのお宅へ行って、説得してみたらどうでしょう。必要であれば、母もお供しますよ」
母は特に、かなしげである。姑としても、こんどの嫁は明るくって良い、と気に入っていたのだ。
「いえ、母上の労にはおよびません。性格の不一致ゆえなのですから、どうこうできるものではないでしょう」
「けれど、このままではあなた、ばつ二ですよ……」
きれいなうす青い目を潤ませて、母は卓の上で小さく両手を揉みしだく。
その手の上に、父が大きな片手のひらをかぶせて、溜息をついた。
「……確かに、去ってしまった者に後ろからごたごたと話を求めるのも、よろしくない。けれどキリアン、本当にもう少し危機感を持ってくれないか? こう離婚ばかり重ねていては、副騎士団長の沽券にかかわってしまうよ」
「……面目ありません、父上」
鳶色巻き毛のだいぶ後退した父に向かい、不肖の息子は頭を下げた。
心中は冷えひえ、キリアン・ナ・カヘル史上最低の冷え込みである。
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出張中に届いていた、報告書や通達にぎんぎん目を通し、ずばずば署名をしながら、際限なく出てくるあくびを、カヘルは奥歯で噛み殺した。
――そう、“性格の不一致”による離婚である。まことに一般的、ありふれた理由づけで、実際これを原因に別れる夫婦がいちばん多いのだ。しかし、……しかしだ、楽しくないとは一体何なのだ? 結婚と言うのはいわば天命のひとつ、人類に貴族に課された種家繁栄のための仕事ではないか。仕事に楽しさを求めるのが、そもそもの間違いである。
慎重と賢明を絵に描いたような騎士と評されるカヘル若侯はしかし、公私の私の部分、ことに女性との関わり合いについては、大傑作のあほうであった。
昨夜も、一体何ゆえに自分がばつ二の残念称号を負わねばならないのか、ようく考察してみたものの、結論の出ないまま寝落ちしてしまった。そうして今朝の寝覚めは最悪である。普段から寝起きのよくない彼が、寝ざめ最悪と言うからには天災級であった。
イリー貴族、しかも王の血統をひく者にあるまじき、おぞましい悪態の数々(ここではとても書けない)を呟きながら身を引きずり起こし、洗い場に向かう……。
鏡の中に見たのは、雨後の柳みたいにざらざらこぼれた金髪の隙間からのぞく、青じろい顔の赤眼幽鬼。通常はいけてる系統の端正な彼におよそ似ない、敗走の兵とか落ち武者のたぐいの相貌である。
そこから出ると、卓にはすでに朝食の粥が置かれて、湯気をたてていた。
事情をいち早く察した手練れの使用人が、そつなく用意していったのである。こういう時の若さまの視界には、とにかく入ってはならぬ。
そのまま誰とも顔をあわせることなく、身支度をしたカヘルはばたんと大きな音をたてて離れの玄関扉を閉め、出勤したのであった。




