19 精霊使い8:妖精の死
イオナが言うところの“石が原”は、今の陣営から東に向けて歩いた所にあった。
丸っこい岩々が、何か巨大な力で寄せ集められたようにかたまって、平原にむき出しになっている。
大の男が押しても引いてもびくともしないようなその巨石が、まるでままごと遊びでもしたように積み重なっている一画が時々あって、イオナはふざけて“巨人の食卓”と呼んでいた。
そのお気に入りの場所にちょこなんと座っている姿を見つけて、ニーシュは走り寄った。
と言っても、そこまで岩々を越えてゆくのだから、並の者ではきつい。
柔らかい革底の履物さえあれば、ひょいひょいと身軽に飛び越えてゆける先行要員の二人だからこそ、逢瀬に使える場所であった。
「ニーシュ」
午後の陽光に赫毛をひるがえして、イオナは男の名を呼んだ。
「ごめんね、シュウシュウと休みたかったんじゃない?」
「いや、構わないよ」
娘に逃げられてしまった、とは言えなかった。
「それよりイオナ、一体どうしたんだ。何か変だぞ、……悪いもんでも食った?」
手のひらを伸ばして頬に触れる。
そのまま抱き締めるつもりだったのに、イオナの手がその手を掴んで、そっと引き下ろした。
「あのね、……ちょっと聞きたいことがあるんだ」
「何だ? 年ならもうごまかしてないぞ。泣いても笑っても、まだ三十きっかり」
笑いながら言うニーシュの顔を、眩しいように見つめながらイオナは唇を開く。
「シュウシュウのことなんだけど」
――大丈夫。ニーシュのことだもん。あんな話、嘘っぱちに決まってる。早いとこ確かめて、すっきりさせる……そのために来てもらったんだ。
「あなたの子なんだよね?」
間があいた。
イオナの肺は空気を求めたが、凍り付いたニーシュの瞳があまりに恐ろしくて、息がつげない。
短い盛夏の午後、太陽はこんなにも美しい世界を照らしつけているのに、イオナは男の表情の中に自分の知らない闇が広がっていることを知って、慄き震えていた。
一体どれ位、そうして向き合っていたのだろう。
ニーシュがゆっくりとまばたきをし、繋いでいた手を離しながら言った。
「今は、確かにそうだ」
::娘を孕んだ弟の花嫁を、あの男は力で奪い取った。あの男は、弟を殺した。
妖精の不吉な声が、蘇る。
イオナは目を伏せた。
「どういうこと……説明して、ニーシュ」
――妖精は真実を語ってたの? わたしの信じた優しいニーシュは、本当のニーシュじゃなかった?
「隠さなきゃいけないくらい、後ろめたい思い出なの?」
「……少なくとも、シュウシュウが知ったら必ず悲しむことになる。何があったのかは、俺がいつか土の中に持ってくつもりだ」
硬く乾いた声で男は答えた。
ぽた。
イオナの足元の岩肌に、滴の粒がぶつかり弾け、そして沁み込んでいった。
その様を目にしつつ、ニーシュは胸のうちで逆巻く嵐のような感情に、じっと耐え続ける。
「頼む。わかってくれ、イオナ」
「ニーシュ。……わたしは女だよ」
涙のにじんだ声はあまりに悲痛で、ニーシュは耳をふさぎたくなる。
「大好きだけど、それじゃわからない。わかれないよ、ニーシュ」
目の前で、その大きな赫い瞳に罪深い自分の姿をいっぱいに映しながら、今までに会った誰よりも強く美しい女が、大粒の涙を流していた。
雲ひとつない青空の下、石の平原上に向かい合うふたりの間を隔てるものなど何もないと言うのに、いまやお互いを分厚い壁の向こうに見ているような気さえする。
ニーシュも苦悶していた。
絶対に、絶対に誰にも明かさずにいるつもりだったあの顛末をこの女、……イオナに話したら。
完全に彼女を失うことになるかもしれない、そして自分たち“親子”の破滅を自ら招くことになるかもしれない、……けれど。
イオナは信じられる。
いちど自分を救ってくれた彼女になら、話してもいいのじゃないか。……いやむしろ、話すべきなのだ。そうだ、話そう。
「――、」
ニーシュが口を開きかけた瞬間、イオナもふっと気付いた。
二人は同じ方向を見やった。西の方から、女性の叫び声が自分たちを呼んでいる。だいぶ遠い所の岩陰に、ひょいとアランの明るい髪色がのぞいた。
「ニーシュ! イオナ! ああ、見つけた!」
切羽詰まった甲高い声で、叫び続ける。
「今すぐ帰って! シュウシュウが、……」
最後の方は、ほとんど泣き声だった。
「川で溺れたッッ……!!」
・ ・ ・ ・ ・
石が原の反対側、これもまた子どもの玩具のようにうず高く積み重ねられた巨石の最先端に、じっと腰を据えていた者がある。
かれは日の光に煌めく赫毛の持ち主が、他の二人とともに慌ただしく岩上を跳んで陣営へ戻ってゆくのを、半里も先から眺めていた。
かれの目が特別よいというわけでは決してなくて、宙をさまよう小妖精の視力・聴力を借りていたのである。その傍らには、死装束を着たあの妖精の娘が、へその緒をゆらゆらと光らせながら浮いていた。娘はやがて、かれの裸の肩にふわりと顔をもたせかけた。
『これで良かったんだよね、メイン?』
「ああ」
肌脱ぎになったメインの上半身、両腕と胸には、得体の知れない深海の生きもの、あるいは密集する蔦の葉ともとれる緑色の文様が浮かび上がり、血脈のようにうごめいていた。
そのしるしは顔まで伸び、ちょうど頬をつたって流れる涙のすじにも見える。
メインは目を閉じ、ほんの少し前に自分の見た風景を思い返した。
お婆ちゃんの所へ行く、ぷりぷり怒って父に叫んだ幼女は、全く別方向に走って行った。父に腹を立てていたから、門番の目を盗んで、いつもは禁じられている近くの小川へ出たのである。
遠巻きにゆっくりと後をつけたメインは、幼女が浅瀬の水面を覗き込もうとしているのを見た。そうっと、声をかけた。
「ここは、いらくさが多いから危ないよ。その白い花をつけたやつ、皆そうだから」
はっとして後じさりする子に、続けて話しかける。
「……あそこの高い所には、もっときれいな花がいっぱいあるよね」
そうしてすたすたと、自身が高場へと歩み始めると、果たして幼女はついて来た。
野ういきょうの白、はりえにしだの黄、釣浮草の朱。鮮やかな色彩の咲き乱れる場所は、子どもにとって小さな新天地だったに違いない。ほとんど花々に埋もれるようにして、楽し気な声をあげつつ、幼女は走り回った。
メインは何も言わず、それを見ていた。
いま、彼女の魂には一点の曇りも見えなかった。さっきまで父に抱いていた、ちっぽけな嫉妬の憎しみや怒りなど、とうに忘れ去ってしまっていた。
そして、急に静かになった。
一拍置いて、ずっと下方からぼちゃり、と水音が聞こえてくる。
メインは薬草の入った籠を背負い直し、切り立った足場から一瞬だけ、眼下に広がる小さな川淵を見下ろすと、そのままくるりと踵を返した。
父に対して、世界に対して、何ら憎しみを持たず、純粋な生の喜びだけを抱いて“丘の向こう”に旅立った幼な児を、少し羨ましいと思いながら。
『馬鹿な女』
妖精の娘の声が、回想を破る。
『ちょっとくすぐっただけで、もうほつれが出始めた』
妖精は今、メインの右腕を両腕にしっかり抱き締めて、ぴったりと寄り添っていた。甘えるように見上げてくる。
『ねえ、メイン。どうしてあんな女に、こだわるの? いいかげん、わたしと“丘の向こう”に行こうよ』
ふわりと浮くと、メインのまわりをくるりと一周して、ふたたび彼の右手を取った。
『わたしは、メインから離れない。メインだけを見る。メインの手がどれだけ血で真っ赤っ赤になったとしても、ずっと大好きでいるよ』
少女はメインの右手のひらを、いとおしげに自分の頬に押し当てた。
『わたしをこの世にとどめてくれた手。水子に精霊の生を与えてくれた、あなたの手だから』
文様の波打つ右手がゆっくりと大きく開き、少女のあご元を掴んだ。
「でもって唯一、お前を消せる手でもある」
少女の瞳が、驚きに見開かれる。
メインの左手が、少女の腹を貫いていた。
差し込まれた部分から、少女の身体は徐々に透き通り始め、次いで光の粒が散ってゆく。
『メイン……なぜ怒るの、わたしが何をした?』
「彼女を侮辱するなと、何度も言ったはずだ」
ぱきぱき、ぱきぱき……
小さな崩壊音がしだいに重なり合い、少女の存在は粒となって、風に薄められていく。
『ごめんなさい。ごめんなさい、許してください、メイン』
最後に頭部だけが残り、瞳からぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちる。
『わたしは、あなたと、もっと一緒にいたい……』
ぱちり。
少女は願いとともに砕け散り、メインはひとりになる。
苦々しげな表情で唇を噛み、長い長い吐息をひとつ、ついた。
「“丘の向こう”へ行って。……そしてまた、生まれておいで。フィンバール」