189 冷々12.激うま・鶏だいこん鍋
「ルリさん。今の時期はもう、これっきりに勘弁してね~? こんな風に抜けられちゃあ本当、困っちゃうのだからさー」
「ええ、もういたしません。ほんとにごめんなさい、以前個人的に仕事を下すった騎士の方が、どうしてもと言うので仕方がなかったんですよ」
「やぁねー、貴族ってな相手のつごう構わんたかびしゃでー。ってあんたも貴族だったわ、ごめんよう」
「あはははは」
本当に代書業者の店に戻ったルリエフ・ナ・タームは、まず気の良い雇い主に謝った。たまっていた分の羊皮紙清書をばりばり二倍速で仕上げてから、ずいぶん遅くに帰宅する。
そう離れていないところにある、ごたごたと立ち並んだ家の上階。借間に帰る、明るさとあたたかさと、芳香が彼を抱きしめた。
「よう、ルリ。おかえり」
入ってすぐの台所部分、小さな湯沸かし炉の前から、大柄な女が笑いかけた。
ルリエフは破顔して、さっさと外套を脱いで手を洗ってくる。ついた食卓の目の前に、女がどすんと椀を置いた。
「うーん! うまいね、ほんとの本当にうまいね!」
ぶつぎり白根に鳥のもも肉。
「今日は卵まで入っている、いいぞう。仕事行く前に仕込んだの?」
「うん。……毎日たべさせといて何だけど。ほんとに鍋がいいんだね、テルポシエ人って」
「いいや? 俺が、ローナの鍋をいいってだけで」
漆黒にほど近い、濃い暗色のちぢれ髪を揺らして、女はうなづいた。
「ところでローナ。わるいけど、また引っ越しなんだ」
神妙な顔つきで言う男に、女は大して動じない。
「また? どこ行きたいの」
「……もう少し、北のあたりかな」
「なーんだ、近場じゃないの。どうって事ないけど、また良いぐあいに家具道具つきのへやが見つかるといいね」
「ごめんよ」
「フィングラス領内なら、別に構わないよ。わたしだって、ひとところに長くいるのは苦手だし。……でもそれこそ、テルポシエに行きたいとか言われた日にゃ、お別れだけど」
ふたりとも、ぱくぱく食べながらぽんぽん会話を続ける。
「帰りたいわけがないよ、あんなところ」
「そ。わたしエノ軍大きらい、何さあんな大きな顔しちゃって……賊の成り上がりのくせに。あいつらのせいで、うちの家族はちりぢりになくなっちゃった」
「そんなのに負けた、俺の祖国もどうしょもない」
「あの、テルポシエのお姫様というのにも腹立つよ。聞いた話、ひとりでお城に居座っているんでしょう?」
「どうも、そうらしいねえ」
「ああいう人こそ皆と一緒に寒い外に出て、ばらばらに追放された人たちを励まして率いるのがほんとじゃないの。それなのに、ちゃっかり自分だけ元の家に居続けるなんてさ? まぁ、エノ軍のえらい奴の、妾かなんかにされてるんだろうけど」
ごくん!
大きく椀の中の汁をのみ込んで、ローナは少しぶすりとした。
「昔、お母ちゃんに聞いた話の中の、精霊使いの女とそっくりさ」
ルリエフは、熱いうで卵を口いっぱいに噛みながら聞いている。
「その人は、自分の村と家族が海賊に襲われた時に捕まって、殺されなかったけどそのまま賊の女にさせられたらしいんだよね。精霊使いって言ったらさ、わたし達東部ブリージ系の中の、いちばん強い親玉みたいなもんだったのよ? そんな偉くて強い人が、なんでやすやす海賊の女におさまっちまうのさ。それこそ抜け出して戦って、皆のことをまとめて率いるべきだったのに、なっさけない」
「じつに、ローナの言う通りだよ。道理のわかってるきみが女王様になれば、イリーも東部も安泰なんだがね」
「ほほほ。良いこと言うルリには、最後のたまごを授けよう」
「ありがたきしあわせ」
汁の中に浮いた小さ目うで卵を木匙ですくいながら、ルリエフは幸せそうに笑った。
「わたしは、誰の女にもなりはしない。あんたとも、一緒にいるのがたのしくって楽だから、くっついているだけ。俺の女とか言い始めたら、忽然と姿を消すからね」
「そうだね、ローナはローナで、誰のものでもないね」
一緒にいるのがたのしい、心地よいからそばにいる、……男と女にそれ以上の理由など要らないのだ。
そう。
ルリエフ・ナ・タームは、現在そこにある心地よさを、めいっぱい享受していた。
だから自分はもう、直接はたらきかけることはしない。筆と文の力だけで、しみったれたイリー世界を、外側からひっかき回してやるのだ。
「白根がちょいと残ってるの、分けて食べちゃおうよ」
「うん!」
よそってくれる目の前の女、東部ブリージ系の女を、ルリエフは気持ちよく見ていた。
――ほんとの本当に、良い女だよ。ローナには、ずうっとこのままでいてもらおう。そうして自分の価値をまるきりわかっていない、……わかろうともしないあのばかな女……“白き牝獅子”なんぞは、それなりの惨めな最期を迎えればいいのさ。




