177 空虚八年目12:黒羽ちゃんの永遠
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『♪ほい ♪ほい ♪ほいほいほい…』
もちつき合いの手ではない、実はかの女が歌っているのであった、……うまいかどうかには触れないで済まそう。
デリアドとフィングラスの国境近く。この夏、深い森の奥にみつけた“岩屋”の脇で、ともした焚火の炎を励ますために、かの女は歌っていた。
小さく自信無げにちょろちょろしていた炎が、今ぱあっと明るく爆ぜ始める。
『いい調子、すてきよ……。うーん、何かあぶるものが欲しいわ』
橙色のほむらにうんうんとうなづきかけながら、かの女は小首を傾げた。
『マシマーロ……』
「あらら、それって私の知らない異国の食べものでしょうか?」
『あっ、ち、違うのよ、何でもないの。寒かったでしょう、ミルドレ』
「へいき平気」
晩秋の夕暮れ時である。日の沈む前、近くを流れる小川へ水を汲みに行き、ついでに行水してきた騎士だった。濡れてべたっと頭に貼り付いた髪が短いから、よけいに若く見える。
昨日はデリアド領の小さな町へ行って、髪を売って来たのだった。
ぱんぱんに膨らんだ革袋を置いて、ミルドレは火の側へしゃがみ込む。
女は翼を広げ、ふわりもこもことその背中側を包んだ。
「ああー、あたたかい……」
青白かった顔にみるみる血色が戻るのを見て、女はほっとする。
彼をいまの姿にしているのはかの女に他ならないけれど、その仕組みを全部知っているわけではないのだ。体の内側のはらわた、臓物もちゃんと若くなってるといいのだけど、と思う。
小川で体を洗っている最中に、心の臓がびっくり止まったりしないか、いわゆる年寄りの冷や水というやつ、ほんとは心配ではらはらやきもきして待っていたのだ。それでもそこまでついて行くわけには、……さすがにいかない。
「さっそく、お粥の準備しましょう!」
ミルドレは用意しておいた岩三つを焚火の上に組み、麻袋から取り出した携帯用取っ手付きの椀に一握りの杣麦を入れて、その上にのせた。
やがて香ばしい匂いが漂う、革袋の水をじゃっと入れて、煮始める。
「昨日の市で買った、牛酪がまだありますから。たっぷり落として、食べましょう」
『寒い季節は、すこし長めに食べものを置いとけるのが良いわ!』
「……ところで黒羽ちゃん、そろそろ衣替えしませんか? 平気なのはわかるのですけど、ミルドレの目が寒いので」
『はっ、そんな季節ね』
女は立ちあがり、白い麻衣のかくしをごそごそやり始めた。様々な色、もようの手巾が際限なく出て来る。
『えーと……あ、これこれ』
小さな手がようやく、若草色のふかふかを引っ張り出した。出てきた毛編み筒外套をすぽんとかぶって、焚火のそば、ミルドレの横に座り直し、ふたたび翼を広げる。騎士は目を細めて笑った。
『ね、ミルドレ。あなたが言う通り寒くなってきたし、今年も冬のこと考えなくちゃいけないわ』
「そうですね! ここの岩屋も夏はなかなかいいけど……」
ミルドレは後ろの岩屋を振り返る。彼は岩屋と呼んでいるが、実は巨大な石が人為的に組まれて卓子状に見えるもの……。最初それが何だったのか、かの女は知っているが言わない。ミルドレを怖がらせたくなかった。
とにかく、石の間からは風がすかすか入る。雨露はしのげても、寒い季節を過ごせるところではない。
「やっぱりどこか、廃屋を探さなくちゃ。最寄りの町はだいぶ物価が安かったし、昨日髪を売った分で余裕で冬越しできるでしょう」
『……ここの森で、冬ごもりするの?』
「ええ。黒羽ちゃん、お嫌ですか」
『……お里から、だいぶ離れているわよ。静かすぎて、寂しくないの?』
もこもこ翼の中で、ミルドレは頭をきょとーんと傾げた。
「……黒羽ちゃん、寂しいのですか?」
『わたしでなくて、ミルドレが。……わたしは平気なのよ、ミルドレが来てから寂しさとはさよならしたんだわ』
「私が寂しいわけ、ないじゃないですか」
騎士はのほほんと笑う。
「おおっ、噴いてるッ」
素早くお椀を火から遠ざけた、ふたをする。
「……これで四半刻まてば、完成です。……今日も、たのしみですね」
女も笑った。素朴な味のお粥を今日もお腹いっぱい食べて、その後ミルドレは素敵にうたうのだろう。食べて歌って、ねむって、明日を楽しみに待つ。それだけの繰り返し。前とは全然違う日々、それでも男はずうっと笑顔だ。
『ミルドレ。……あなたは一体、何を望むの』
やさしく低い声で、女は聞いてみた。蒼い双眸が静かに見返してくる。
『この先、どうしていきたい?』
「何でしょうね、このままつらつらと食べて寝て、ゆるーく生きていけたらなって思います! そして!」
のほほん笑顔にゆるさ全開で騎士は答えた、まじめに尋ねた女はほがっと脱力した。
『や、やる気ないわー』
「あはは、話を終わりまで聞いてください。黒羽ちゃんたら、せっかちさん。……そうしてながーく生きてね、アイレーにおける全部の興亡を見よう、と思うんです」
『へえ……?』
これはちょっと意外だった、ミルドレがのんびりこんなことを考えていたなんて。翼の毛羽をもわっと立てて、女は騎士の顔を見上げる。
「何百年かの先にイリーが自然に滅びて、ついでにティルムンもキヴァンもすういと絶えて、全てが静かになる瞬間まで見届けたいんです。そこまで多くのものを見てゆけば、経験と記憶とは叡智になって、私はあなたに近づけるかもしれません」
『……』
「そうすればあなただって、安心でしょ?」
どきいっとして、女は頬っぺたを赤くした。……そうだ、自分はいったい何を聞いてしまったんだろう。この人は、ミルドレは、ひたすら自分のためだけに生きてくれている。自分とともに在ることだけを、望んでくれているというのに……。
『……ありがとう、ミルドレ』
彼の言う興亡を、実際に女はみてきた。嫌になるほど目にしてきた、その都度かなしく涙をこぼしてばかりだった。でもとうとう鈍感になって、たえてゆくものを哀れと思わなくなったこともあった。
……けれど今、彼がかの女のもとに現れてから、涙はうれしさによって流れ出る。そのミルドレが、自分に添うてくれるという。永く長く終わりなく在るかの女と、ともに在ることを望んでくれている。
男が左腕をすっと広げて、かの女は彼のあぐらの上にするりと座り込んだ。たちばなの花の奇跡が起こる前にも、ずうっとそうしていたように。
『本当に、嬉しいこと言ってくれるのね』
「……ちょっと違うんです。黒羽ちゃん」
『?』
「……私は、ひたすら怖いんです。もともと気が小さいのもあるけど……」
右手をのばして、ちょっとだけ椀のふたを開けてみて戻し、ミルドレは静かに続ける。
「死ぬのが怖い。私がうっかり死んじゃったら、あなたはまた一人で、ずうっと塔の上でべそをかくんでしょう? 何十年も、何百年も」
『ふがー、年じゅう泣いてるほど泣き虫ちゃんじゃないわよ、わたし!』
「でも、普通の人間よりずーっと多く泣いてるでしょう」
『……』
「そういうあなただからこそ、私はいいのですけど。ミルドレが死んじゃったら、誰が手巾をお供えするんでしょう。誰もいません」
想像した途端にあんまり悲しくなって、女はうつむいた。さっきかくしから出した色とりどりの手巾、こんなにかわいいのをこんなにいっぱい、お供えしてきてくれたのだ、この人は。
「……丘の向こうに行ったとしても、別の人間に生まれ変われる、すなわち魂はこの世界に帰って来れる、と考える人がいます。でも……そうして再び帰って来れたとしても。その新しい私は、またあなたを見られるでしょうか? 保証なんかないんです。あなたが気付いて呼びかけても、新しい私はわからず通り過ぎてしまうかもしれない……。そんな恐ろしいこと、絶対にできるわけないんです」
すこし速くなった鼓動からわかる、ミルドレはものすごく真剣だ。
かの女は彼の左胸のあたりに、顔を埋める。ふっくら結い上げた髪が、ごくごくごくわずかな感触を伴って、ミルドレの鼻先にこすれた。
「残していくなんて、できません。……そういう風に、あんまり離れるのが辛いから、最も惜しいから。だから最惜しい、って言うんでしょうね」
♪ 俺はイリーの土地うまれ、……
いつもの歌が降りてくる。それで騎士の左腕はやわらかく、しかし力強く、かの女の小さな頭を抱え込んだ。
「空虚八年目」の章は終了です!
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
本日正午からは、サイドストーリー『黒羽ちゃんと不滅のお供え騎士』を集中更新いたします。
https://ncode.syosetu.com/n4279il/
『海の挽歌』本編は、しばらくお休みを…と考えていましたが、デリアドのカヘルさんが代打をしてくれるそうなので、まかせようと思います!さすが戦棍ユーザー!ちょっと毛色をかえて推理サスペンスふうになっております、こちらも気軽に楽しんでいただけたら嬉しいです。
というわけで次回更新は、2月6日0時(日本時間)です。一日一回更新になるので、ご注意くださいませ。
「空虚九年目」のこのタイミングで『黒羽ちゃんと不滅のお供え騎士』をご覧いただいておくと、後がもう~大変たいへん楽しさ増大、という流れになっております。作者として、ぜひとも!のご一読をおすすめしております!
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。
(門戸)




