175 空虚八年目10:ミオコ先生のお手本
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子ども達がひきあげた後の卓子をきれいに拭いて、さてそろそろ鎧戸もしめようかしらと顔をあげたところに、裏口の方から声がする。
「先生。せんせーい、こんばんはー、俺でーす」
はっ!!
ミオコ先生はものすごい勢いで台所に回ると、扉をうすーく開けて呼びかけていた男の腕をさっと掴んで、中に引き入れた。
同時に、勝手口付近をきょろきょろっと見渡す、何も不審なところはなさそうだ、ほっ!
「なに、どうかしたの! 先生」
「誰にも見られてないでしょうね! つけられてはいないわね?」
「大丈夫っすよ」
ふ~!! ミオコ先生は安堵の溜息をついて、教え子にうなづいた。
「ナイアル君。なかなか怪しげというか、きな臭いというか、そういう世界を見ちゃったのよ!」
「えっ」
ぎょろっとした眼をさらに大きくする様子は、ほんとに子どもの頃からそのまんまの顔である。
ついさっきまで、お習字教室の場であった居間の食卓の席について、ナイアルは渡された通信布に見入った。
「……ファダンのお習字協会が、有段者の生存確認って……変だな?」
「そうよ。何をどうみても、うさん臭さぶっちぎりでしょう。だからわたし、個人的に生徒たちの消息はきいておりません、くらいに軽く返事を書いたのよ。それが今年の春さきだったのだけど……」
テルポシエ北区にて、なかなか評判のよろしいお習字教室を経営しているミオコ先生は、顔をぎゅうぎゅうにしかめて唇をすぼめた。
「そしたら先月、今度はひとが訪ねてきたのよ! お習字協会の秘書で、やっぱりファダンから来たって言うの。登録有段者の名簿を更新しているから、先の包囲戦などで亡くなった方がいたら教えて下さい、と言うのよ。
確かにわたしは段を取る生徒さんの窓口として、協会とやりとりはしているけれど、こんな風に聞いてこられるなんてこと、今までなかったし……。どうにもおかしな感じだったから、かなり身構えて応対したの」
「ふうむ……で?」
「差し出された名簿は、ファダン協会の印が入ったものだったわ。わたしの教え子で段持ちの人の名が八人分、ちゃんと入ってたわね。でもその人、あなたとローム君の名前をくっきり示して、このお二人は? って聞くの!」
「……!!」
「心臓ばくばくしたわよ。その勢いで震えながら、ふたりとも召集された後を聞いていないんです、って言ったの。じっさい、かわいそうなローム君のこと考えたら、涙が出ちゃって、……ううう」
ナイアルはすかさず、かくしから墨染手巾を取り出して先生に差し出した。お習字教室に行く時は墨染手巾、これも長年通ってしみついた慣習である。白いのはいけない。
「……どんな人だった?」
「女の人ふたりよ。わたしくらいの年の銀髪の奥さんと、似たような顔つきの若い人。どちらも上背があったわね……母娘なのかしら? 首に、色違いできれいな絹布を巻いていたわ。そうとうのおしゃれ上級者よ」
どうでもいいとこよく見てんなあ、と内心でナイアルは感心する。
「でも、わたしがうっかり泣いたのを見たら、二人ともそうですか……って。それであっさり行ってしまったの。でもそれでぴんと来たのよ、彼女たちはあなたのことをさぐりに来たのだわ!」
「……お習字協会の人間じゃあ、ないな」
「違うわね。もし、このナイアル君は元気にしてますよって言ったら、あなたを捕まえに“紅てがら”へ行ったんじゃない?」
「かもな。先生、引き続き俺っちは行方不明ってことにしといてくれよ」
「わかってますよ。ほんとになるのが嫌だから、死んじゃったとは嘘でも言いませんけどね」
“紅てがら”の看板息子として、界隈で顔を知られ過ぎているナイアルは、実は市内潜入時にかなり気を遣う。下町お店者にあるまじき厚いあご髭を生やしたり、買い物どきを外したりしている。特徴ありすぎなまなざしを隠すための帽子は欠かせない、今日も持参している。
ただし、ごくごく一部の親しい人びとには、自分のやってることの詳細を明かさずに、行方不明者あつかいを続行してもらうように頼み込んであった。お習字師範のミオコ先生もそのひとりである。
「ほい、できましたよ」
「おおおっ」
そのミオコ先生がくるりと回してよこした布に、ナイアルは見入った。
「さすが先生、どこからどう見ても前世紀の変態かなだ。極上林檎蒸留酒、百九十七年度シエ半島産。権威と歴史の圧倒感、しろうとの眼はぐらぐらに揺れるぞ」
「いま、変態って言ったわね。変体ですよ、変体かな使い」
「テルポシエでこんな古い字書けるの、先生以外にいないからな。何をどうでも箔がつくってもんよ、毎度ほんとにありがとう」
ふるーい字体でしかつめらしく書かれた、新酒のふだである。このお手本を元に、ナイアルが書き写しまくったものを瓶にくっつけて、オーランやガーティンローのいいとこな酒商に売り込みにゆくのだ。
「……べつに嘘は書いていないんだから、詐欺じゃないのよね」
「実際なかみもうまいらしいんだ。銘につられて割高で買った客だって、後悔しやしないよ」
以前、海賊船から分捕った高級林檎酒のことをふと思い出したナイアルが考えついた、金儲け作戦の一環なのである。あの時の数本は後日とんでもない高値で売れて、独自に対エノ戦線を維持する第十三遊撃隊の貴重な資金源になったのだ。
自分は飲めなくても、儲かる匂いのするものは手放さない副長なのである。
「あなたのことだから、心配はしないんだけどね。ここの“七”のはね具合は要注意よ」
「うん、ちっと難しいな。きれいにまとまるまで、みっちり練習しよう。
この年になっても、まめに書き取り練習してんだよ、先生。偉いよねナイアルは」
「一生懸命いい字書くのに、年は関係ありませんよ、……ん?」
今の言い方なんだか変ね? ミオコ先生は首を傾げたが、ナイアルは全く自然に、かくしをごそごそ探った。
「これはいつものやつ。とっといて」
「あーらまあ、気を遣わなくって良いのに、ふふふふ」
礼儀として言いつつも、ミオコ先生は満面笑顔で、“むちむち黒梅”のずしりとした布包みを袖の下に受け取った。好物なのである。
「そいじゃあ先生、またよろしく」
「はいはい。元気でね、気を付けるのよ。ほんとに」
かたり……。
教え子はすばやく出て行った。ミオコ先生の自宅は、それで一気に静まり返る。騒がしいというわけではないのに、雰囲気の賑やかな子だ。一人以上の何人かが出て行ったような感覚がする。
卓の上を片付けて、先生はおやと思った。
ナイアルが座っていた腰掛の横、もうひとつ同じ腰掛が並んでいる。
――はて、なんで二つ出しちゃったのかしらね? まえの教室の子が、しまい忘れたのかしら。
いい大人になった教え子が、ほんとのところは何をしているのか、彼女は知らない。知らないけれど、それが後ろめたいものであるはずがない、とゆるぎなく信じている。何か善いもの、良いことのために励んでいる彼を、陰ながら応援している。
だから、またナイアルのことをしつこく聞き回ってくるような輩がいても、先生は泣きの一手でしらばっくれる気満々であった。
「ふ~~」
腰掛け二つを重ねて部屋の隅に片付けながら、もう二十年以上も前、そうやってその卓子に並んで座って、書き取りをしていた二人のことを思い出す。
――行方不明じゃなく、確実にいなくなってしまったもう一人も、ほんとにまっすぐ前向きだったしね。
当時からちゃんと感づいていたミオコ先生は、寂しい思いを振り払うため、夕食何にしよ!と明るく口に出して言った。




