174 空虚八年目9:ランダル王対アリエ侯
「大父さま。いま、鐘が十一鳴ったわ」
「うーん、そんな時間かい。それじゃ二人は、食堂のお手伝いに行きなさい」
「ぼく、大父さまの手伝いの方が良いんだけどなあ」
「また、午後から手伝って。テイリーさんは、君たちを必要としていますよ」
ロイとゾイは書簡庫を出ていき、ランダルは背の高い書棚に取り囲まれて一人きりになる。
グラーニャがザイレーンの町で、“ミルドレ・ナ・アリエ”に遭遇して一週間。
ゲーツから怪談じみたミルドレ不老不死説を聞いて、そんな馬鹿なと思いつつも妙に引っかかるものがある。そもそもが、グラーニャ父王と同時代のミルドレ・ナ・アリエ老侯からして、ランダルが怪しいと目を付けていた人物なのだ。
とりあえずは直接史料に触れてみよう、と思い立って書簡庫に籠り、双子にテルポシエからの親書を抜き出してもらうよう頼んだ。イリー暦181年、ミルドレ・ナ・アリエ若侯が父に代わってテルポシエ宮廷で働き出して以降のもの。
たった六つの子どもを書簡庫に、とも思うが双子はランダルの薫陶を受けまくっている。大部分を読めなくても、日付と出所を素早く見抜いて、すぱすぱ選んでいくのだった、特にゾイ王子。関係のない親書を元通りに戻すのにも、そつがない。実によい助手である。
親書は何十枚もあるが、目当ての名はなかなか見つからない。ようやく一枚だけ、183年のを見つけた。拡大する街道での山賊略奪行為被害について、注意を喚起する内容だ。
よけておいたそれを、ランダルはじっと見つめる。つと立って、窓際へ行った。文官が作成した文章の下、署名のみアリエ侯の手による従来型の親書である。
――取り立てて達筆でもなし、下手というのでもなし。紛れもなく男性。貴族。
ランダルは“観察”に入った。
――全然“圧”がかかっていないな……?
そう言えばこの人は、当時いくつだったのだっけ、と思い返す。181年にテルポシエ宮廷と港で会った時の印象はほとんど記憶にないが、確か自分とあまり変わらないか、少し若いくらいだったはずなのだ。
「……とすると、これを書いた183年でも、せいぜい三十代半ば……」
壮年の男、それも文官でない騎士の筆としては、やたらに圧が弱い。貴族出自で、いくら羊皮紙に慣れているとしても、ここまで軽い筆づかいの三十代はあまりいない。
「……」
改めて筆致を見る。当時のアリエ若侯の推定年齢を考えると、どうにもそぐわない古臭いまとまり方をしている。
――父親が書いた、って見た方が違和感ないかもね……。老侯はたしか御方グラーニャのお父上と同い年だから、ええと……この時生きてたら七十歳?? うん、ぴったりその年代の書き方だ。そのくらいのおじいさんならば、こう軽ーい圧でさらさら、すらっと書くだろうねえ。
ランダルはその辺をざっと片付け、書簡庫に鍵をかける。183年の親書を片手に、すぐ近くのニアヴの執務室へ行った。一人で書類仕事をしている正妃に、軽く会釈する。
「ニアヴさん、お昼なんで鍵を返しますよ」
「あら陛下。午後も続けるのなら、そのままお持ちください」
「そうですね。古い書簡一通、借りていきます」
「はーい」
事務的で素っ気なさ極まるやり取り。しかしそこに少し前までの冷たさ暗さは全くなくなっていて、“夫”も“妻”も軽々している。
自宅、マグ・イーレ城離れに戻る。はしばみの木の間をのぞいてみたが、ディンジーが天幕に戻った様子はなかった。ここのところ留守ばかりだ。
「お帰りなさい。調べもの、はかどりまして?」
居間の長卓子にランダルの書き付けを並べて、清書作業をしているミーガンが、座ったまま笑顔を向けて来る。
「うーん、あんまり。また午後も行ってみるよ」
「じきに、お昼ですわね」
自分の書斎に戻り、183年親書を机の上に置いた。
――アリエ若侯。この人は、188年のテルポシエ包囲・陥落戦で亡くなったことになっている。けれどその事を確かめるすべはないし、……ひょっとしたらうまく逃げおおせて、生き延びたのかもしれない。御方グラーニャとゲーツ君がザイレーンで会ったと言うのは、つまり若侯本人だったのじゃないだろうか?
「ああ、そうか。それなら“本人”だよね……」
ゲーツの涙目の主張にも、一応筋が通る。
約二十年前とほとんど見かけが変わらない、と言うのは妙ちくりんであるが、よく考えれば身近に好例があった。
リンゴウ・ナ・ポーム若侯である。皆見かけに騙されているが、実はもう四十代なのだ。比類なき童顔と爽やかな笑顔、柔らかい物腰をもってすれば、約二十年の隔たりを越えても“前とおんなし”でいることは可能である。……のかもしれない。
ランダルは書棚から、木箱をひとつ下ろした。開けた上ぶたの隅に、小さく“疑惑ミ”と記してある。ぱたぱたと内の布束をめくり、その一枚を抜き出した。疑惑のアリエ老侯とその息子にまつわる行動や事象を、年表形式にしたものである。
「うん……やはり」
アリエ若侯のそのつど推定年齢を、確かめてみたのであった。
「181年、港でおよそ二十八歳なら、今年198年で四十五歳……うーん!!」
いっくら若見えでも、さすがにちょっと……どころかものすごく、苦しいんじゃないのか!
――だめだこりゃ! お昼食べてから、また考えよう……。
年表を箱に戻しかけて、ふと老侯のその都度年齢が目に留まった。
「……今日見つけた親書の年に、生きてたら六十七歳なのか。ふうん」
少し考え込んでから、木箱の底の方をごそごそやって、布包みを一つ引っ張り出した。
「……」
ふんっ、と鼻息をひとつ、やや憎々し気についてからランダルはそれを机に置く。
嫌な思い出が詰まりまくりの親書である。人目に……というか何かのはずみにグラーニャやゲーツや双子たちの目に触れてしまわないよう、ずいぶん前にランダルが書簡庫から“ちょろまかして”おいた。
遥か昔、何も知らずに晴れやかに嫁いできたニアヴと、自分の幸せを願ってその結婚を祝福してくれたミーガン、ふたりへの罪悪感で死にそうな程に苦しんでいた頃、とどめのように届いた書。
父王時代の失策で膨れ上がっていたテルポシエからの借款、それを減額する代わりにグラーニャ姫を第二妃に迎え入れろ、と言う半ば脅しのような内容である。いったいどうして、当時のランダルは絶望に喘ぎつつも疑問を抱いた。
自分のところには既に正妃がいるのに、言いがかりのように重婚適用まで強いて、この幼い姫を押し付けたがるのは何故なのか? 借金の弱みがあるとは言え、仲の悪さではイリー諸国隋一のマグ・イーレ、テルポシエ目線で見れば格下も格下である。
結局グラーニャは罪人のような形でマグ・イーレへ流されてきたわけだが、姉の殺害未遂という粗相をしたのはずっと後である。この親書を作成している時点では、グラーニャは大きな失態などしていなかったはずなのに。
「……」
ランダルはゆっくり、布包みを解いた。
実はこの書こそが、ランダル・エル・マグ・イーレと“ミルドレ・ナ・アリエ”の、最初の邂逅にして対峙であった。
他の誰にも伝えていない、いや言えるわけないのだが、ここまで執拗かつ冷酷な態度でグラーニャを厄介払いしようとしていた“傍らの騎士”の名が、のちに彼の前に何度もあらわれる。
はじめ気に留めなかったが、現テルポシエ王室の正統性に疑惑があると知った時、――ランダルは気が遠くなったのを憶えている。
ディアドレイの即位を控え、ミルドレは幼いグラーニャを追放したがった。ウルリヒの即位に際し、グラーニャをガーティンローで暗殺しようと目論見た。
いやな奴、油断ならない老人だと思う。主君の妃と姦通したあげく、自分の娘を女王にするために、そして孫を王にするために、なりふり構わぬ裏工作をするとは。
けれど現在、事態はこの亡者の我欲を越えて、イリー都市国家群全体の存亡にかかわる所まで来ている。
……“赤い巨人”の出現。
巨人の正体について、ランダルは一応の仮説を完成させていた。
ゲーツ、ディンジーとともにガーティンローの書店で写本『テアルの巻』を読み、ついでにマグ・イーレ城の蔦取り大掃除を経ていくつかの浮彫を確認、つまり話中の“善い巨人”こそイリーの守護神、黒羽の女神なのだろうと思うようになった。数年前に出現した赤い巨人はそれと同じもの、ただし間違った者に間違った呼ばれ方で出てきてしまった怪物である。
十中八九、呼び出したのはエリン・エル・シエ。理術がけのマグ・イーレ奇襲作戦でエノ軍は歯が立たない、そこで古い伝統にのっとって最後の切り札たる巨人を召喚し、戦局を打開しようとしたのだろう。正しい黒羽の王統である自分ならば、自在に使役できるのだと信じて。
しかし彼女とその母たるディアドレイ女王は、テルポシエ王室の正統な血をひいていなかった――。たぶん本人も気付いてはいない、エリンは“間違った者”だった。なぜか?
そう、ミルドレ・ナ・アリエ老侯のせいなのだ。
この男の所業までさかのぼることで、エリン姫の非正統性を証明できる。同時にグラーニャのテルポシエ王位を要求できる。さらに言えば、赤い巨人を黒羽の女神へともどし、駆使できる……ようになるのかもしれない、どうやるんだか知らないが。 ……ああ、いや、知っていた。エリン姫が死ななければならないのだった。
ランダルは溜息をついて、丸まった羊皮紙を机の上に押し広げた。
広げ切ったところで、ぎょっとして手を離した、いやな虫にでもうっかり触ってしまった人のように。
……恐る恐る、もう一度押し広げる。
ふううううううううう!!!
鼻息が震えた。
いや、どころか指先から唇から顎から、ランダルはわなわな震えだした。
それは恐怖と言うより、怒りに近い感情による震動だった。
珍しく文官の手が入らず、文章から署名まで一貫して一人の人物が書いている。
羊皮紙右隅にある、ミルドレ・ナ・アリエの署名。166年白月の日付。
ランダルが机の上、すぐ左横に並べて置いた183年嵐月の親書の署名。
「同じだよ」
ランダルは低く呟いた。羊皮紙二枚にぐっ、と目を近付ける。
以前、少年王ウルリヒと間諜の筆跡酷似を発見したが、あの時は年代的な差、十五歳の少年と壮年男性との隔たりがわずかにあった。何らかの強い絆があった二人の人間、別人であった。しかし、今目の前にあるのは。
「……何て、こったい」
ランダルは頬杖をつく。
「アリエ老侯と若侯の署名はおんなじだよ。どうにも本人だよ」
――あなたー。そろそろ、おひるにまいりましょーう?
階下から呼びかけるミーガンの声が遠い。
「じゃあ、何。老侯と若侯は同じ人ってこと? でもって若侯とザイレーンで見たのも同じ人?」
――ゲーツ君、皆ミルドレってどんだけ名前気に入ってんのって言ってたよね? 本当だね、そりゃそうだね、だって本人なんだもんね?
くわーッッ、巨人方面だけでも十分に超常な領域に入っちゃってると言うのに! こっちまでほんもの怪談なわけッ? 不老不死で若いまんま生き続けてるだなんて……うらやましすぎる! いや違う、不気味すぎるッ。
御方グラーニャが見たように今もぴんぴんして市井をうろついていると言うのなら、きゃつの目的は一体何なのだ!? 今も何かを企んでいるのか? ぬううっ、史書家兼同人作家パンダル・ササタベーナの名にかけて! ミルドレ・ナ・アリエのしっぽを、掴んでやるーッ!!
「しっぽじゃなくって、羽でないの……」
いきなり正面から言われて、ランダルはぎょっくり跳びはねた。
「ディンジーさんッッ! 脅かさないで下さいってば!」
「いや、あなたも十分独り言激しかったし……。ね、とりあえずお昼食べに行かない? ミーガンさん、心配してるよ」
考察のつもりが、後半声に出てしまっていたらしい。ランダルは顔をあかくして、ディンジーと共にそそくさと書斎をあとにした。




